これを読まれている方は、遠い昔に誰かに言われた

 

ある言葉が頭から離れない、

 

という現象に悩まされることがあるだろうか。

 

そもそも言葉とは、生暖かいものではないはず。

 

一人が青と考えることもあれば、

 

別の人は赤と考える世界線がそこにあるはずだ。

(音と概念の違い)

 

「子供っぽい」「童顔」「可愛い」と

 

私は言われてきた。そして、聞かされてきた。

 

だけど、色んな人に言われてきたからと言って、

 

納得できない。私は怒りと悲しみに沈んでいる。

 

できるはずもないだろう。

 

あなたに不快な思いをさせるような事をしたのなら、

 

話は平行線を辿るかもしれない。だが、そうではない。

 

悪気がなくとも、

 

発した言葉は被害者に転換される。真実となる。

 

とても言葉に尽くし難い、

 

心のダメージが残ることは確かだ。

 

そこから目を逸らしてはいけない。

 

でも、周りは認めない。知ったことではない。

 

個人に自由があると本当に信じ、

 

周りの自由を否定する輩がいる。人生を謳歌している。

 

なぜだ。なぜなのか。

 

誰が、「わかる人」が「わからない人」の分の義務感や、責任、傷跡を背負わなければならないと決めたのか。

 

他人は無責任だ。大人こそ加減を知らんではないか。

 

なぜ、自分の声が奪われなければいけないのか。

 

生む人を間違えたと言っている両親の声。

 

雑音とは思えないほど、直線的な周囲の声。

 

もう、視界に入る何もかもが理解できない。

 

世界が理解できない。

 

普通であることが美化され、

 

実践に置かれないであれば、

 

僕が僕であることを肯定してくれる人が一人くらい現れてもいいではないか。

 

言葉のお遊びにも程がある。

 

僕には、祈りを捧げる相手すらもいないのか。

 

では、この声をどう消化しろと仰るのか。