ここのところ、あまり満足な学習ができていない。

 

その一つに、何をすれば良いかが、分からなくなってしまったからだと思う。

 

どんなに優秀な航海士でも、地図がなければ何もできないのと同じだ。

 

しかし、そう思うと、今の若者は生きるだけでも苦しい世界にいる。

 

VUCAとか、予測不可能な時代と言われいるが、そんな時にどうしら良いのかは、

 

歴史の研究者や、経済学者などの博覧強記の人たちでさえ、困惑しているのだ。

 

こうゆう時に、日本がエセヒューマニズムを掲げる資本主義社会であるように感じる。

 

ここで、思い出したのが「真賀田四季」というキャラが言っていたセリフだ。

 

(実はそれをタイトルの参考にした。)

 

彼女は小説の中で、「死」というのが自然で

 

むしろ、「生きている」状態が不自然だと言っていた気がする。

 

彼女がいうには、寝ている時に心地よい、と感じたり、意識が薄れていくことに快楽をえているのは、意識を失っている状態が自然だから、だそうだ。

 

多分そんな感じだったと思う。

 

そして、もう一つ加えるのならば、赤ん坊が生まれてくる時に泣いているのは、

 

不自然な状況に落とし込められ、辛いからだ、とも書いてあったと思う。

 

また、この本の著者は、本の内容の要約は、所詮データに過ぎないから

 

ネットで本のあらすじを紹介する行為をあまり生産的とは言えないと、言っていた。

 

なので、この記事を書くのが少し気が引けるのである。

 

しかし、どうしてもこの理論に納得してしまう自分がいて嫌なのだ。

 

だって、生きているのが不自然なんて、「才能」という言葉のように、

 

現実逃避にいつでも詠唱することができてしまうではないか。

 

アニメ「ブリーチ」では、二重詠唱というの技のようなものが登場する。

 

言葉の通り、二つの詠唱を唱えることで、普段よりも一段と強い攻撃を相手に与える手法だ。

 

だが、これは現実にも切り取って当てはめることができる。

 

現実逃避がバラエティに富んでも、理想の自分と、現実の自分の二極化が進むだけだ。

 

そして、我々はその重課に耐えられるほど、安定した立場にいない。