最近になって、人間とコンピューターの関係性について考えるようになった。
そして、人間は「今」を認識する能力が退化しているのではないか、と隙間時間に考えている。
私は昔から、自分を周りと同じ人間と認識することができなかった。
自分と周りの人が、「日本人」だというのは幼い少年にもわかる。
だが、本質的なところで不一致を感じ取った。
なぜ、自分には嬉しい時に高笑いしたり、涙を流したりなどの機能が備わっていないのだろうと、常に考えていた。
そして、こんな事を考えている間に、他の子たちが楽しそうに遊んでいるのが、まるで自分が失敗作だと暗示しているようで、とにかく心苦しい。
また、世界規模で考えれば、自分は相当恵まれている環境にいることは容易に想像できる。
そんな恵まれた状況で、何もできない自分の無力さが、何よりも「恥」と心得た。
終いには、もしも、〜になったら、どうしよう、などと考える。
年を重ねることに、現実が身近に感じるので、余計に自分のご都合主義を呪った。
加えて、すでに取り返しのつかない過去に執着し、もしも〜できていたら、変わっていたかもしれないのに、とか考える。笑止千万!
ちなみに、私は、これらの自問自答で、利をえたことは、一度もない。
なので、アニメ「ハンターハンター」に出てくる、ヒソカ的にいうと、メモリの無駄使いだと結論づけている。
しかし、現実は「考え方」や「見方」でなんとかなるのに、「考え方」や「見方」にはそれが当てはまらないのは、少しおかしい。
その「考え方」や「見方」にフォーカスしてみると発見がある。
それは、自分の力の及ばない「過去」や、「未来」に確執していることだ。
先ほど例に出した、もしも〜だったら、どうしよや、もしも〜だったら変わっていたのに、などはどちらも現在に背を向けている。
それに対して、コンピューター(もしくはAI)は、常に「今」起きていることを、正確に映像として記録している。
そして、彼らが人間よりも、格段に高い解像度を誇っているのはいうまでもない。
記録した映像を、過去のデータと照合したり、今までの出来事に一貫性があるのかどうかを、標準を現在に当てて、考えている。
だが、人間がそもそも収録機能を体外に作り出したのは、確たる理由があるはずだ。
そこで、人間というのは「今」に焦点を当てるのが苦手なのではないか、と考えた。
人間の体内では、DNAや、電子レベルで拒絶反応を起こし、体外的な「ナニカ」に割り当てることを宿命つけていたのではないだろうか、と。