おそらく、この類の記事は、広辞苑から引用をしたり、〇〇さんによると〜、のような冒頭から始まるものが多いと思う。
しかし、それでは”間違い”が生まれないし、試験や審査を受験する時のように、世間でこれは間違いではないと認められているから、と理由で減点されない文章を書くことになってしまう。
もちろん、そのおかげで一般的な文章力というのは飛躍的に伸びたと思う。
だが、間違いがあってこそ、次はここに気をつけようね、と自分に注意したり、自分以外の人は、間違った人の考えを参考に、自分なりに修正を加えたり、時には自分の中に保留しておくことで、時間が経った時にいい感じに発酵している状態になっていると思う。
それらを踏まえ、私は、正しい、間違ってるを超えて、大学での学びからふと思った”教養”と”知識”の違いを紹介しようと思う。
もちろん、ここから導き出された答えというのは、経験則に基づいているので、信用性が高いとも取れるし、低いとも読み取れると思う。
そして、是非とも文章の読みずらさは、寛大な心と共に見過ごして欲しい。
知識
私は大学生なので、小学校から、高校までの義務教育の過程を通過したのは間違いない。ただ、大学生という擬似的な社会人になり思ったのが、私は今まで何のために、何を勉強してきたのか、という疑問だった。
小学校の頃は、良い成績を取りたいと思っていたし、中学校の時は、とにかく勉強のできる優等生に憧れた。高校でも一貫して、知的なガリ勉キャラが好きだった。
でも、誰でも少し考えれば、これには辻褄が合わないことに気づく。
行動に一貫性があるのだから、普通はその人物の目的は自然と見えそうなものだ。
学問的に見ても、我々人間は、他人から言われたことを、”やる”のに抵抗がある生き物である。
むしろ、反発する人の方が心理学的には人間らしい、とまで考えている。
ということは、自分を納得させるには、内側の自分と外側の自分のコミュニケーションが必要不可欠になる。
だが、自分の中で幾度もなく反芻を繰り返したのに、意味がわからないというのは、どうも皮肉にしか聞こえない。
もちろん、誰の責任ではないと思う。私を含めて。
ただ、小さい頃から散々、いろんな人から自分の頭で考えることの大切さを説かれきた結果がこれなのだ。
「馬の耳にも念仏」という言葉は、「人間の」の方がしっくりくるだろう。
あらためて、大学生になってから”知識”とは何かを考えてみると、車で言う”ガソリン”にあたると思っている。
どんなに良い性能を搭載した車を持っていたとしても、ガソリンがなくてはその性能を発揮できない。
田中角栄さんの”思考展示会”とでも呼べる本にも、誰よりも経験した人こそがリーダーの気質を持っていると書いてあった。
そして、それと同時に、どんなに優秀な人でも、知識がないと何もできないと書いてあった。
実はもう一つ好きな言葉がある。
”花は咲いてこそ花 手折るべからず”
(蒼天の拳)
自分の才能を守るためにも、知識は必要なのかもしれない。
教養
私は「教養」と辞書で調べたことがない。というか、このかた生きてきて、辞書を開いたことは数える程しかない。
全くもって自慢になっていないが、街角で大衆に向けて「教養って意味を知っていますか?」と質問しても、あまり統一された答えは返ってこないと思う。
ある人は、生きるための武器、と答えるかもしれないし、もう片方の人は、人生を豊かにするもの、というかもしれない。
つまり、このように範囲が広く、抽象的な概念こそが教養だと思う。
そんなことを頭の隅に入れながら考えてみると、私なりの教養とは文章を読むための学問だと思う。
これは森博嗣さんの「読書の価値」という本を読んだことで、森博嗣さんの考えに強く影響をされているから、ともいえる。
だが、それもまた本質のように感じる。
教養とは、教科書のように誰かによって決められた人たちが、そのまた決められた人たちに向けて書かれた教材から学ぶものではなく、ばったり出会った情報と捉える方が腑に落ちるからだ。
偶然にも公園で出会った、おしゃべり好きのお爺さんに教わる、戦争時の状況や、バブル期の日本の姿、などの経験は「教養」と呼ぶのが形容するに最も相応しい。
従って、自然的な出会いこそが教養であり、その学びのカケラの到達点が知識であると思う。