今日も非常に変な1日でした。

 

私はコーヒーを飲まないと勉強ができないのですが、今日は

 

課題に取り掛かる前に、休憩時間に淹れたコーヒーを飲んで

 

しまったため、もう一度入れ直すようなことがありました。

 

本当は1から作り直さなくても良いのでしょうが、なぜだか

 

こうゆうことは頑なに意思を貫きたくなってしまうのはな

 

ぜなのでしょうか。意識といえば、意識と無意識や、人間的

 

と動物的なものから、受け継いだり他人に譲渡できるものな

 

ど様々なコンテクストがあると思うのですが、私が先ほどみ

 

せたような判断はどちらかというと矛盾を抱えていますから

 

どれでも当てはまるようで、当てはまらないような気がしま

 

す。そもそも、それを論じている時点で判断がまともな判断

 

ができていないのだと言えますよね。(眠くて半ボケ状態)

 

前提が不安定な気がします。

 

それよりも、今日はずっと昨日読んだ本について触れたいと

 

思っていました。本のタイトルは「人は見かけによらないと

 

いうけれど・・・」、作者は道塚 瞬さんです。

 

一応公式のあらすじも直接引用させていただきます。

 

 医学部の生活も四年目を迎え、臨床医学の講義が始まった。推理研究会のメンバーである僕と鈴木智也(スズキトモヤ)は、精神科の授業をだらだらと聴講し、退屈な日々を送っていた。そんなある日、この街で奇妙な殺人事件が起きた。父親である高橋健三(タカハシケンゾウ)が、斧で頭を割られて発見されたのである。警察は、状況証拠から犯人は娘である高橋千沙(タカハシチサ)の犯行と判断する。
 警察の調査に疑問を抱いた僕たち推理研究会のメンバーは、ひょんなことから独自に事件を調べていくことになる。すると、娘の千沙は睡眠時遊行症という精神科で教わった病気を患っていることがわかった。僕たちは、睡眠時遊行症の症状により、娘の千沙が無意識的に父親を殺してしまったのではないかと推理した。
そして、さらに事件を追っていくうちに、僕たちはとんでもない真実を知っていくことになる…。
本格ミステリー短中編小説。

amazonより

 

ざっくり言えば、少女が父親を殺害した容疑をかけられて

 

しまい、それに疑問を抱いた医大生たちが事件を解決すべく

 

色々と調査を進めていくストーリーとなっていたのだが、

 

事件の真相や、犯人に用いられていたトリックらが特に

 

新鮮で面白かったと思います。

 

推理においても1回では完結させず、物語が進ごとに得られ

 

るヒントをもとに、何度も主人公が自分の推理を変えていく

 

姿を見守れるのは、推理とは裏腹の和みがあると思います。

 

また、今回は作者と自分の考え方などを考えるのも当たり前

 

なことなのでしょうけど、面白かったです。最近は、何に

 

対して意識を向けたら良いのかがわからなくなっていたので

 

自分以外の人間の物事の見方に触れられるのはありがたいで

 

す。

 

 事件の調査を進める学生たちの会話の中で、

 

「じゃあ、罪に問われなかったら、理由なく人を殺してもい

 

いのか?」という問いに対して、もう1人の学生が困惑してい

 

るところ、「俺が言いたいのは、そうゆうことだよ。本来、

 

人間には元から備わっているものがある。例えば、人を殺し

 

てはいけない、とかね。でも、ごく少数の人間は、元来備わ

 

っているものすら持たずに生まれてくる人もいるってわけだ

 

よ。」と学生が持論(結構いろんな人が言っていますが)を披

 

露している場面があるのですが、なんか大事な事を言ってい

 

るけど、大切な事を省いている気がして、それが学生たるも

 

ののせいなのか、それとも他の社会的なものなのか、、

 

そうやって考えるのがどうも平和で楽しい。

 

法には人を殺してはいけないとは、明記されていないけど、

 

殺人を犯したら、憲法第199条の殺人罪に該当してしまう

 

大人の切り口のようなものや、優生思想が感じ取られたり、

 

法というものをテキストという縛りから切り離して考えるこ

 

とができていることや、再生産(reproduction)と殺人の関係

 

についても考えることができますし、とても基本的なことな

 

がらも、ついつい色々と考えてしまいました。

 

シンガポールなどでは、生産productionに加重を載せすぎた

 

ために、再生産reproductionの面で苦労していたりするわけ

 

ですし、しっかり学習を活かせればいいです、、、

 

長々書いてしまいましたが、本当に文章にだけ許される特権

 

のようなものがあると思います。私なら友達と感想を語り合

 

う時には絶対ここまで話そうとしません。笑

 

どこまで言語化するべきなのか、に関しては人類の歴史の偉

 

大さとその流動性が見せる二つの事象を考える必要があると

 

思うのですが、たった5000年あまりの文学の歴史と、たった

 

100年間の変化を考えると、どうも何が自然で、何が人為的

 

なのかわからなくなりますよね。

 

少々長くなってしまったので、今回はここまでとして、

 

また次回アップさせていただこうと思います。

 

ありがとうございました。