『消された一家』  豊田正義

 

 

 

これは、北九州で起きた連続監禁殺人事件を取材した犯罪ノンフィクション。

途中、読むのもつらくて少し飛ばしながら読んだ。

 

事件の詳細については触れないが、こういった事件が起きたとき思うのは、「人間」についてだ。

 

 

本の中から抜粋

 

〜思考を停止させ、感覚を麻痺させることは、「生き延びる術」とも言えるが、その代償として、純子はますます松永に依存せざるを得なくなっていった。〜

 

〜誰かが些細な理由で最下位に落とされれば、他の者は安堵し、絶対服従の態度を続ける。そして最下位の者は、序列を上げるために松永の歓心を買おうとし、家族を裏切ることも厭わなくなる。こうして家族は敵対関係に陥り、もはや結束して松永に対抗することもなくなる。〜

 

解説から

〜さらにサイコパスは、傲慢でプライドが高く、自信家な上にうぬぼれが強いことが多い。口が達者で流暢に自分の都合のよい話を語るため、一見したところ魅力的に見え、多くの人が簡単に手玉にとられる。〜

 

人間が集まれば、上下関係が作られ、その上下関係によって問題が起きる場合もある。

上下関係がすべて悪いとは思っていないけど、

その関係を良好に保つためには、俯瞰してみることが大事なんじゃないかと思う。

 

適度な距離感。

 

会社や学校や組織の中で、例えば売上のために上下関係から誰かと誰かを敵対関係に仕向けるのは、売上を伸ばすためには有効かもしれないけれど、信頼関係は成り立たないかもしれない。

 

結局、誰かと誰かを敵対関係に仕向けることは、人を服従させるための手段になることが多いように思うからいやだ。

 

例えば、子供の時、兄や姉、または、弟や妹と比べられたとき嫌な気持ちになった経験は誰しもあるかと思うのだが、

大人になるにつれその感覚に鈍感になっている気がする。

子供のときの感覚は、案外、あたっている。

そんな気がする。

 

社会はどんどん複雑になっていくから、でもその複雑さも、もしかしたらその複雑さも幻かもしれないと、たまに思うときがある。

複雑にしたのは、神様でも犬や猫や山や海ではなくって、人間自身が社会を複雑にしたのだから。

 

自分自身も、ときには俯瞰してみて、自分が誰かを服従しようとしていないか、無意識にせよ、誰かを敵対関係にしむけていないかとか自分を分析するのも、ときには必要なのかも。