『空港にて』 

 

 

 

 

この本の裏表紙に「他人と共有できない個別の希望を描いた」と書いてあった。

あとがきでも龍さんは「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。」と書かれている。

 

世の中が複雑になっていけばいくほど、希望といっても一つじゃない。

小学生の希望、中学生の希望、高校生の希望、大学生の希望、大人の希望、

というように単純に「あなたの希望は〇〇です」とも言い切れない。

だから希望自体、自分にとっての希望が分からない人も多いんじゃないかと思う。

友達のAさんの希望に惑わされたり、芸能人のBさんの希望に影響受けたり、親から子供への希望を自分の希望の勘違いしたり、

希望といってもその希望が何なのかわからない人が大半のように感じる。

だから希望がなんなのかをわかっている人を、人は憧れ、羨み、ときに妬んだりする。

 

だから龍さんは「個々の希望」を描きたかったのかなと。

 

この本の中で特に印象に残った箇所がある。

 

 

「笑い声というのはそれだけを聞いてもなぜ人々が笑っているのかはわからない。」

「祖母が右半身がまったく麻痺していたとき、ラジオで落語のようなものを聞いていて反応したこと」

「他人の笑い声は暴力的だ。」

「テレビの画面でタレントがワニに食われそうになっても、自分の外の出来事だと最初からわかっているので緊張しなくて済む。」

「ぼくたちはどんなものでも笑いの対象にすることができる。ぼくたちは人間や犬やチンパンジーを笑うことができる。だが虫を笑うのは無理だ。」

「人間なのに虫のように扱うことで、ぼくたちは彼のことを笑っていたのだ。」

「ぼくたちから笑われるとき、彼は自分も一緒になって笑った。だがあるときからそいつの顔が歪んできた。イジメに遭うと人間の顔がしだいに歪んでくるのだとぼくたちは初めて知った。」

笑いは緊張を生むこともある。

笑いは楽しいことだけではない。

笑いは状況によって変わる。

笑いは受け取る人の心理でも変わるのかもしれない。

そう言う場面を緻密に描く龍さんの小説が好きだ。