『ヒュウガ・ウイルス 五分後の世界II』 村上龍
この本を最後まで読んで、あとがきの龍さんの言葉が印象的だった。
この小説を書くにあたりウイルスに関する情報・ご協力頂いた先生方への感謝のあと、次のように書かれていた。
〜ただし、本作品における生物学的な誤りは、すべて村上に責任がある。〜
と。
今まで読んだ本で、このような作家の方のあとがきを見たのは初めてだった。
龍さん、好きだな。
この小説の中で印象に残った言葉。
〜本当の危機感と、本当の知性がなければ、民族主義は悪に染まるのです。〜
〜弱くて脆い部品が精密に作動するから生物は進化した、〜
〜(省略)〜UGが世界に誇る天才音楽家がつくるのは歌ではなくて音楽なのだ。歌は既に世界中で死んだ、ロックは三十年前に死んだ、歌は常に泣き声でうたわれる、わたし達は歌が死に絶えた時代を迎えて久しい、どの国よりも早くその時代にUGは適応してしまった、だからUGが嫌いだ、あなた、名前は?〜
正直、ワタシにはここでの「歌」と「音楽」の違いがわからない。
わからないから気になる。。。
〜UG兵士はシンプルな原則で生きている。(省略) 悲しい時にただ悲しい顔をしていても事態の改善はないことを彼らは子供の頃から骨身に染みて学んできたのだ。アメリカのテレビでのおなじみの光景、災害や事故や犯罪の現場でレポーターが被災者や被害者の家族に聞く、悲しいですか?悲しいでしょう?最優先事項がなく退屈な人々はそれを見て今自分が悲しくないことを確認して安心する。〜
これは、『五分後の世界』の中で小田桐が母親のことを回想したとき
「オヤジもオレもあっちの世界に住んでいて、あんな目をしている男なんか一人もいなかったからだ」
と言っていたのを思い出した。
小説のなかでは
「アメリカのテレビでのおなじみの光景」
とあるが、
それは今は日本でもおなじみの光景となっていて、
そのおなじみの光景は、ニュースは事実を伝えることを主旨としていなくて、
おそらく視聴率というのを主旨とした情報になっているように思うから、
テレビ離れなどといわれるのは、正直、「テレビのおなじみの光景」にうんざりしている人も少なからずいて、
危機感を感じていないワタシも含めた人もいるってことだと思った。
シンプルな原則で生きるっていうのは、ある意味、人間らしい生き方なのかも。。。
よく表情豊かな人が人間らしいって言われるけど、そうともいえないんじゃないか?って、ふと、思った。そうともいえるし、そうともいえない。
この小説の中で、ジャーナリストのコウリーがだんだん変化していく様、
「あんな目をした男」の世界に違和感を感じなくなっていく様がおもしろかった。
最初のページでコウリーが
「腰のあたりを軽く平手で叩かれた。」→「アメリカの放送局だったら今の行為はセクシャル・ハラスメント」と思う場面が、なんともいえず印象的だった。
なんというか、小説の中身にはあまり関係ないんだろうけど、時代を写す表現だし、なんか印象に残る。
昔の日本のほうがよかった、とか、そんな郷愁にさそうのではなく、今の日本と昔の日本を冷静に観察したいと思ったのが、この本を読んだ感想です。