映画とモダニズム 

『村上龍対談集  存在の耐えがたきサルサ』より

 

これは、龍さんと15人の方との対談集。

 

 

📚龍さんと浅田彰さんとの対談メモ

 

🍀浅田彰さんについて

  経済、社会思想史学者

  『構造と地から』『逃走論』出版

 

 

 

📝才能について

 

「才能というのは、子供っぽい欲望を保ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排していかなるコストもリスクも引き受けてみせる意思だ」

過去に浅田さんが書いた解説より

 

 

・浅田さんの言葉

 

「ある時点ではバカみたいに見えるようなものを作っちゃっても、後からみると、あれはああいう意味があって、今こういう形に展開してるんだ、とわかるようになってる。」

 

 

📝共同体について

 

・龍さんの言葉 

 

「映画を撮り続けたときに、共同体から攻撃されわけですよ。おまえはここにいろということで芥川賞をいただいたわけじゃないですか。それに、「放っといてくれ」とかいって映画を撮るから一斉に・・・・・。」

 

これは、龍さんと浅田さんの対談に出てきた話ではなく、ワタシが感じたことだが、

何かに飛び抜けた人というのは、たぶん、自分が飛び抜けていることに最初は気づいていなくって、

あるとき攻撃を受けて、初めて、それに自分が飛び抜けていたことに気づくんじゃないかと思った。

龍さんが「共同体」と呼ぶものは、その飛び抜けた人に対して恐怖みたいな感情が浮かび、「共同体」の箱からはみ出さないようになにかしらの行動に出る。

でもその恐怖は、単に自分が知らない世界を相手が知っているというだけで、実は恐怖でもないのに。。

カメラを向け写真を撮ろうとしたら、「魂を抜かれる!」と拒否したおばあちゃんのように。。。

 

かなしいかな

知らないことはこわい

知らないことに恐怖をもつより、興味をもちたい

 

 

 

アーティストの方が政治についてコメントすると叩かれたり、

1人でいくつもの箱を行き来するような人は攻撃を受けたり、

法律違反でもないのに、世の中のその偏った決まりごとを正当化して攻撃し自由を奪う。

 

そんなことをふと思った。

 

 

 

浅田さんとの対談の中で

「恍惚と覚醒が同時にあるという状態がすごく好きなんです」と言った龍さん。

そんな龍さんの小説をまた読みたいと思う。