原点・・・という言い方が正しいのかどうかはわかりませんが
私がこの世に生を受け、今日まで歩んでこられたのは、父と母・・・両親がいてくれたから。
昨年、私の病気療養中に母が急逝し、充分なことが出来ないまま見送ることになってしまいました。
もう高齢だったのでいつ何が起きてもおかしくない、という心づもりはしていましたがやっぱり親を喪うって、心に穴が空いたような気になります。
この7年ほどは私が主介護者として母に関わっていたけど、正直、向き合うのがしんどい時期もありました。
特に最後の2年間はかなり母に振り回されて、ヘトヘトでした。
介護生活はゴールの見えないマラソンを走っているようなもので、同居していたわけじゃない私でも心身を相当削られましたから、今自宅で介護されている方は本当に大変だと思います。
体調を崩してしまったのも、介護と仕事と、そして家庭と。3つを抱えて動き回る事が限界に達していたのかもしれません。
母の法事も一段落したこの機会に
自分の気持の整理も兼ねて、私の記憶が薄れる前に、父と母のこと・・・私のルーツを、ここに記しておこうと思います。
興味のない方はどうぞスルーなさってくださいね。
私の父は、関西で生まれ育った人ですが
母の出身は山陰。山深い村で育ちました。
父も母も、多感な時期を迎える頃に戦争を体験している世代です。
母は、6人兄弟の上から4番目の次女。
長兄はとても優秀で、人に誘われて戦前に満州に渡り「満鉄」(南満州鉄道)に勤務していたそうです。ですが、日本に帰ってくることは出来ず、あちらで亡くなったと・・・
戦後に親戚が遺髪だけを持ち帰ったそうですが、いつどこで、どうして亡くなったのか・・・母は「誰にも詳しく聞いたことはない」と言っていました。
まだ子どもだった母に、説明するのも憚られるようなことだったのかもしれません。
母の父(私の祖父)は戦争中に亡くなっています。
戦死ではなく、病死でした。徴兵される前に病気にかかり、数年家で寝ついて、充分な治療もされないままで亡くなったそうです。戦争がなければもっとちゃんとした医療を受けられたろうに・・と母は言っていました。
頼りにしていた長兄を亡くし、夫も病気で亡くなり、一体祖母はどんな思いで戦争を乗り切って子ども達を育てたのだろうか・・・と、思いますね。
だからでしょうか。
祖母は母に「これからの女は手に職をつけないといけない。手に職さえあれば女1人でも生きていけるから」とよく言っていたそうで
祖母の苦労を間近で見ていた母はその言葉に従って看護師になりました。
そして故郷を出て、高度成長期に沸く関西に来て、病院で働くようになりました。
父と知り合ったのは、その病院で。
怪我で入院していた父と、患者と担当看護師としての出会いだったそうです。
父は手広く農業を営む旧家の生まれで、母と同じく6人兄弟の4番目の三男でした。
どちらも「兄弟の多い真ん中の子」ということで幼少期はかなり放任で(というか、ぶっちゃけあまり手をかけてもらわず)育った、という境遇が似ていたことも親しくなった理由かもしれないですね(あくまで娘の私の推察)
交際する中で結婚を考えるようになった2人ですが、父の家族・親族から大反対にあいます。
実は母の方が少しだけ年上だったんです。
今の時代、女性が年上でもそれが支障になることはあまりないけれど、昭和30年代の古い因習が残る農村地域では、女が年上なんてとんでもない!と。
しかも母は関西から遠く離れた山陰の出身なので「どこの馬の骨ともわからない」女扱い・・・
その上、父には親同士が決めた結婚相手がいたのです。
父は三男坊なので、同じ村に住む遠縁の1人娘のところへ婿養子に出す話が子どもの頃から決められていたとか。
そんなこんなで、結婚なんて絶対許さーん!と、父親(私の祖父)は大激怒だったそうですが
父はそれを押し切って、母と結婚しました。
唯一、味方になってくれた自分の母親(私の祖母)の力を借りて、最後はちゃんと結婚式も挙げて祝福してもらったと。
私は幼い頃から父親似と言われて育ちましたが
まあ確かに「こうと決めたら絶対に譲らない。どんな反対があってもやり遂げる」という気質は父譲りかもなぁと思ったりします(笑)
そして父と母は私を筆頭に3人の子どもに恵まれ、小さいながらも家を建て、日々つましくも幸せに暮らしていたのですが・・・
結婚生活わずか10年とちょっとで、父は亡くなりました。
突然の交通事故でした。
仕事帰り、信号待ちをしていた父の車に居眠り運転のトラックが追突したのです。
父はまだ30代半ばでした。
妻と幼い子ども達を残して逝くことがどれほど無念だったことでしょう・・・
残された家族の生活は一変しました。
母の人生は、そこから本当に激動だったと思います。
元々父方の親族には結婚を反対されていたので、父がいなくなって関係が悪化。
今後の生活のために、子ども達をそれぞれ養子に出してはどうか、と言われ
弟は子どものいない叔父夫婦の養子に、私は独身で商売をしている叔母の養女に、という話が出ていたようです。
色々揉めた挙句、最後は「お前は実家に帰れ。子ども達は本家で引き取る」と伯父夫婦に怒鳴られたとか。
それでも全てを拒否した母は、自分1人で子ども達を育てます。と父方の親族に宣言して、せっかく建てた家も手放し、住まいを替えて、一旦辞めていた看護師としてまた働くことを決意しました。
まさか、昔祖母に言われた「手に職さえあれば女1人でも生きていける」がここで本当になるとは夢にも思わなかったわ、と笑っていた母を思い出します・・・
母は昼夜を問わず働いていました(三交代勤務ですから)
本当は家計も楽じゃなかったはずなのに、私には好きなだけ本を、弟たちにはその時その時に興味のある物を、買い与えてくれました。
それは父親がいないためにお金のことで引け目を感じないように、という母の意地だったのかもしれません。
ずいぶん無理していたんだろうなぁ・・・と今になって思いますが、私はそんなに頑張っている母に対していつもめちゃくちゃ反抗的な娘で(苦笑)
中高生にもなればいっぱしに家事も出来たはずなのに、全然そういう手伝いもせず、外タレの追っかけしてるような娘だったので、何度も母を泣かせました。
母が私達を育てるためにとても苦労していることは子ども心にもわかっていたのに、私は全然素直じゃなくて。
父が亡くなった時の親族との確執等を見ていたせいか、いつも「ここは自分の本当の居場所じゃない」という気持ちがあって・・・外タレを好きになったことをきっかけに、海外へ行きたい、ここじゃない場所で暮らしたい、と思うようになりました。
実際、母の反対を押し切ってちょっとだけ語学留学にも行きました。本当はもっと長く居たかったけど、母があまりに泣くので渋々帰国したという親不孝娘です。
でも、いまだにその頃の気持ちは消えてなくて・・・還暦も過ぎたのに、心のどこかで結局私はデラシネ(根無し草)なんじゃないか、と思う自分がいます。
父を亡くした喪失感に起因したこの感情は50年以上経っても消えないことに、自分でも驚きます。
悲しみは時が癒すこともありますが、年を経るごとに深まる哀しみというものも確かにあるのですよね・・・
海外行きたい。どうせなら外国人と結婚してあっちで暮らす。
などとほざいて母親を真っ青にさせていた悪い娘の私ですが、結局ごく普通に日本人と結婚したので、母は本当に安心したようです(笑)
夫が結婚の挨拶に来た時「こんな娘をもらってくれて本当にありがとうございます」と言った母にちょっとムカついたけど(苦笑)
そして夫に「お前、どんな娘だったの?」と聞かれて「うるさいわ」と更にムカついたけど(爆)
そして
母が一生懸命育てた3人の子ども達は皆それぞれ伴侶を見つけ、子どもも生まれ、母は大勢の孫に囲まれた「おばあちゃん」になりました。
時折、父に孫の顔を見せたかった・・・と言うこともありましたが、もしも父が生きていたら、私達は全然別の人生を歩んだはずなので、今目の前にいる孫とは会えてないんだよ、と言うと「そうだね」と寂しそうに笑っていた母です。
時は流れて、自称「山育ち」で足腰の丈夫な母は80歳を超えても充分元気だったので(家事も全部1人でやってた)
このままの状態で長く暮らせたらいいなぁと思っていたのですが・・・
「老い」とはそんなに甘くないものですね。
身体は丈夫でも、少しずつ認知症の兆しが見え始め、今まで通りの生活が難しくなったのが7年前。
兄弟間で何度も話し合い、結局長女である私が母を呼び寄せて面倒を見ることになりました。
昔、さんざん母を泣かせた親不孝娘だったので、最後は恩返しのつもりで介護しようと腹を括ったわけです。
幸い私の夫も息子達もとても協力的で、母に優しく接してくれて本当にありがたかった。
私はというと、やっぱり昔からの関係性は変わらず偉そうに母に対して怒ってばかり・・・「なんでそんなことするの」「さっきも言ったでしょ」等々、母のやることなすことに文句つけてイラついてた気がします。
もうちょっと優しく言えないのか、と何度夫に注意されたことか(苦笑)
頭では理解していても、心の中では「老いていく母」を受け入れられなかったのかもしれません。
それでも最初の5年間は大きな問題もなくさほど手もかからず、穏やかな生活だったと思うけど、ある日母が尻もちをついて「胸腰椎圧迫骨折」を起こしてからが大変。
痛みで動けなくなったことをきっかけに一気に認知症状が進行し、被害妄想、幻覚、に悩まされまともな会話も出来ない状態に・・・元々心臓に持病もあったのでそちらの病状も悪化してもう、最悪。
その間に住まいも何度も替わることに。
病院、施設、また病院・・・と、本人の容態が変わる度に行く先も替わることを余儀なくされました(実は途中でコロナも発症してしまい、その関係でコロナ病棟のある病院に移る必要もあったので)
主介護者の何が大変って、その度にあちこちに手続きに出向かなければいけなかったこと・・・もう何枚書類を書いたかわかりません。
自分の仕事の合間にそれをやるのは本当にストレスでした。
コロナ禍の真っ最中だったので、病院での面会は制限されていて最後の半年はあまり会うことも出来ませんでした。
会うと必ず「家に帰りたい。早くここから出して」と訴えました。
母が帰りたかった「家」とは山陰の生まれ育った実家のことでした。
そこで1人で暮らすから、もうあんた達には迷惑かけない。
って言うのですよ・・・病院に入っていたらお金がかかるでしょ。だから帰る。
と、母は最後まで子ども達に負担をかけることを気にしていました。
寝たきりに近い状態なのに、1人で暮らせるわけないでしょ。とたしなめると
血相を変えて「私は今まで子どものためだけに生きてきたの!最後ぐらい自分の好きにさせて!」と怒鳴った母・・・
母の言葉で、それが一番心に刺さりました・・・
認知症が進み、見栄も建前もとっぱらった、あれがむき出しの母の本音だったのかと思うと・・・ね。
早くに夫を亡くし、誰にも頼らず子どもを育てた母は、自分の趣味や楽しみなんて持つ時間もなかっただろうし、自分の本音すらグッと堪えて吐き出さずに今まで生きてきたのだと思うと言葉が出ませんでした。
「自分の好きにさせて」と怒ったけれど、それでもやっぱり母は母で。
私が病気の治療のために入院することになった、と告げた時は「どうしてそんなに悪くなるまで放っておいたの!」とその時だけ看護師の顔に戻って怒られました(苦笑)
いや、放っておいたわけじゃないし。
「あんたは仕事のし過ぎやで!」と言われた時は
それにプラスしてばーちゃん(母)の世話もあったから疲れたんだよっ!と言い返しそうになりました(言ってないけど)
でも、そんな会話が成り立つのはもう私だけで、他の家族(弟たち、私の夫、孫など)の誰が来てももう判別がつかなくなってました。
そんな中で私「だけ」は最後までちゃんと名前で呼んでいたので、娘として頼りにしてくれていたのかな・・と思います。
治療を終えて退院した後、一度だけ母に会えました。
その時はだいぶ意識レベルが悪くなっていて、まともな会話は出来なかったけれど「私」が来たことは理解していました。
緩やかに、死に向かっているのだと思いましたが、悪いなりに病状は安定していると医師から説明を受けていたので、ある朝突然「呼吸が止まっています。すぐに来てください」と病院から連絡を受けた時は驚きました。
亡くなる1時間前まで普通に会話をしていた、と看護師さんから聞いたので
最期に会うことは叶わなかったけれど、きっと苦しまずに眠るように逝ったのだと思います。
それがせめてもの救いです。
母が亡くなった時期は、私が職場から「そろそろ復帰してもらえないか」と打診されていた頃で
どうしよう・・・と迷っていたところでした。
まだ完全に回復したわけじゃない。けど、休職前に残してきた仕事が山ほどあることもわかっていたので、無理してでも行くべきか・・・
と悩んでいたら母が亡くなり、あぁ、母はこれ以上私に負担をかけないために逝ってしまったのかなぁ・・・と思ったものです。
結局、その後母の葬儀や後片付けですっかり疲れてまた体調を崩してしまったので、職場復帰も延期になったのですが。
母が「まだ行くな」って止めたのかもしれませんね・・・
うちのブログの準レギュラーであるスマ友MIKIKOさん。
彼女も数年前からご両親を介護されていて、最近は推しの話と同時にお互いの介護の愚痴や悩みを言い合う仲でもあったのですが
彼女が私の両親を算命学で鑑定してくれて、それを曼荼羅アートとして描いて送ってくれました。
緑の方が父で、赤と青が母のアートです。
50年以上離ればなれだった夫婦ですが、今は天国で、このように仲良く寄り添っているのかな・・・
若くして亡くなった父なのでおばあちゃんになった母を見つけられないといけないと思い
母の棺に、母が大事に持っていた2人の新婚旅行の写真を入れました。
これを目印にしてお父ちゃんに見つけてもらってね、と声をかけました。
それが母とのお別れでした。
恥ずかしくて1回も言ったことなかったけれど
お父ちゃん、お母ちゃん。私を産み、育ててくれて本当にありがとうございました。
また生まれ変わっても、2人の娘でいたいです。
そしたらその時は、もっともっと、2人との時間を大事にしたいと願っています。
本当に、本当にありがとう。
とても私的なことを長々と書いてしまいました。
最後までお付き合いくださった方、読んでいただきありがとうございました。
MIKIKOさんがうちの両親のことを書いてくれた記事はこちらです↓
MIKIKOさんにも改めてお礼申し上げます。
素晴らしい絵を描いてくださり、ありがとうございました。