お待たせしました。
前回に引き続き、SMAPのメンバーに
「20年間の中で、一番衝撃的だったアクシデント」 は【森くんの脱退】だった、と言わしめたあの出来事について
今だからこそ、あの時を振り返り、知っていることについて、私なりの検証をしてみたいと思います。
西武園のファンミーティングで、香取慎吾ちゃんが
「森くんが辞めるとこを聞いたのは、スマスマが始まる前の、1回目の全体会議の日。ポスター撮りもした日。
スタッフ全員に挨拶したあと、楽屋に帰ったら、森くんが実は・・・、と切り出した」
と、当時の様子を細かく打ち明けました。
会場にいた人はもちろん、翌日ワイドショーを通じて全国のテレビでもその話が流されたので
多くのファンは「そんな時だったのか」と、初めて明かされる脱退エピソードに、驚いたことだと思います。
もちろん、私もその1人です。
そんな具体的な場所と様子が、まさか脱退から15年が経って明らかになるとは・・・
まったく予想もしていませんでした(苦笑)
あの場のニュアンスでは、メンバー全員がその時(スマスマの打ち合わせで)初めて森くんの口から脱退を聞かされたように受け取られたかもしれませんが
実は、そうではないのです。
ファンミでは、慎吾ちゃんがあまりにも熱の入った語り口で(笑)身振り手振りまで交えて、当時の話をしていたので
「そうだったね」と同意するだけで、それ以上のことには触れなかった、SMAPのリーダー。
中居正広。
彼だけは、もう少し早く森くんが辞めることを知っていたようです。
ここで、そのことについて触れている、ある記録をご紹介させてください。
1995年4月~1998年4月まで、フジテレビ系で放送されていた深夜の音楽番組に
「TK MUSIC CLAMP」という番組がありました。
小室哲哉氏から司会を引き継ぎ、96年の5月に中居君が二代目の司会を担当していたこの番組の、3回目のゲストとして出たのが、森くんでした。
収録は、スマスマの方が後だったのですが、オンエアの関係で事実上、世間に「SMAPの森且行」としての「最後のテレビ出演」になった番組として、ファンの間では有名な番組でもあるかと思います。
今でも動画サイトで探せば、この番組を目にすることは出来ますし
「SMAPのメンバーでいたことを、誇りに思ってほしい」という中居君と
「ずっとこれからも一番でいてほしい」とSMAPへのメッセージを送った森くんのやりとりは、涙なくしては見られない名シーンとして、ファンの間で語り継がれています。
この番組は、もう終了してから13年も経ちますが
ありがたいことに、ネット上では今もずっと、ゲストとして出演した人達とMCの対談の記録が閲覧することが出来るようになっています。
なので、今更私がここでご紹介しなくても、すでに読まれた方、目にされた方も沢山いらっしゃるかとは思いますが・・・
あえて、ここでご紹介させてください。
実際に番組でオンエアされたトーク(Edited version)と
放送されなかった部分も含めたトーク(Non edited Version)の2種類があるんですが
もちろん、ここでは、「すべて」を語った方をご紹介します。
少し長いですが、森くんが脱退に至った経緯や心境。そして、それを受けて中居君が何を思い、どう行動したのか・・・
貴重なお話が書かれていますので、お読みください。
「MUSIC CLAMP」 1996.5.29 OA 森x中居対談
いかかでしょうか?
この番組の放送当時は、今ほどネット環境が整っていなかったので、私がこの対談の記録(ノーカットの方)を知ったのは、おそらく、森くんが辞めてから数年が経過していたかと思います。
森くんが最後に出演した番組・・・それも、中居君とたった2人で向かい合って語り合った番組ですから
私の中では、大切な、でもとても切なく悲しい、特別な番組だったのですが
オンエアされなかったお話を含めて、2人が語った内容を初めて知った時は、そうだったのか・・・
となんとも形容しがたい気持ちになったものでした。
でも、彼が脱退した時には見えなかったことが少しわかって、心のもやがちょっとだけ晴れたような気持ちにもなれました。
2人の対談の中で印象的な部分を検証してみます。
まず、私も含めてですが、ファンが森くんの脱退で驚いたのは「どうして、あの時期だったのか?」ということです。
幼い頃からの彼の夢だった、という話はすでによく知られていることですが
森くんは
>去年(95年)の11月にレーサーの募集があることを知った。年齢的にもう、最後だと思った。23歳までだから。
と言っています。
今はオートレーサーになるための要項に、年齢制限は撤廃されましたが
当時は「23歳まで」という年齢の上限があったのですね。募集を知った時点では、森くんは21歳から22歳の誕生日を向かえようとしていた時です。
レーサーの募集は(当時)2年に1回。
つまり、この年を逃すと、森くんはもう夢だったレーサーになる道が閉ざされてしまう・・というギリギリの選択を迫られていたのです。
>これはもういくしかないなと。ここでもう。
この前のレースで準決勝に進めるかどうか?という際どい場面でも、この言葉が出ていました。森くん。
彼の覚悟を決める時の言葉なのですね・・・きっと。
>いかなかったら一生後悔する。
でも、葛藤していた。頭の中ではもういろんな考えが。闘いでした。いろんな自分が出てきて。
試験を受けると決めたあとも、さすがに8年間続けてきたSMAPへの思いが、森くんの中で迷いを生じさせます。
当然のことだと思います・・・
>踏ん切りは、二次試験を受かってから。
一次が受かった時は、正直いってまだ迷っていた。「どうしようか」と思った。
あきらめてSMAPを精一杯頑張ろうか、それともレースにいくかすごい悩んで・・・
>二次に受かった時、新聞で発表になっちゃった。僕も全然知らなくて、色んな人に迷惑かけちゃった。
あれで、新聞見て合格っていうのがわかって、その時に
「ああ、もうここまできたんだから絶対ダメだ」と思った。もう、迷惑かかることはわかってても、もう自分の好きなことやっちゃおう、とそこで決断した。
この新聞に出た、というのは2人で「福岡のコンサートの時だったよね」と言い合っていますが
確かにその通りです。
森くんが「オートレーサーになるための試験に合格した」と世間に初めて報道されたのが
96年3月29日のことです。
前日(28日)のオートレース候補生の合格者発表を受け、スポーツ紙が各社一斉に、森くんの合格を大々的に報じていました。
「日刊スポーツ」はなんと一面トップ記事。
私、この記事、今でも脳裏に焼きついてます・・・
『森クン オートレース』のメインタイトルが付けられ、前年夏コンの写真で、ステージに立つ森くんのすらっとした全身写真が掲載され
【SMAPと両立 本気だぜ】の小見出しもありました。
森くんが1人で一面記事になるなんて・・・!(苦笑)
朝のワイドショーで、大きくこの一面が取り上げられていた時、テレビで見て、えっ?と思ったことを昨日のことのように覚えていますよ。
記事の内容は
24倍の超難関を突破して、森くんが候補生になったこと。
(過密スケジュールの中で、1日2~3時間の睡眠で試験のための勉強をしていたこと)が書かれており
中でも目を引いたのは、「ジャニーズ事務所も理解している」という趣旨のことでした。
事務所コメントとして
「森くんの個人的な問題で事務所はとやかく言うことない。もちろん本人はSMAPを辞めることはないし、2つの世界で頑張る意気込みでしょう。今後細かく話し合いたい」
と、理解を示している、と出ていたのですよ。
だから、ワイドショーでも「マッチのようにレーサーと二束のわらじで、芸能活動は続けるんでしょうね」というような見解で結んでいました。
オートレースなんて言葉、その時初めて聞いた私は
「それ、なんぞ?」と頭の中が「???」となっていましたが
「SMAPは辞めない」「マッチみたいになるんだろう」というマスコミの言葉を信じて、そう大事には考えていませんでした。
だから、まさか、森くんがこののち、あんなことになっていくとは・・・
この時は夢にも思いませんでした。本当に。
森くんの言葉が本当だとしたら、コンサートツアー中だった彼も、私達と同じレベルでこの朝、自分の合格を知ったということになりますね。
でも、実は対談の中で中居君が
>(森が辞めることは)最初にマネージャーから連絡がきた。2月ぐらいだっけ?その時確かめるために、森の親父さんと電話で話した。
とも言っているので
合格、不合格に関わらず、森くんは2月の時点で親しい人には辞める方向で相談していたのかもしれません・・・
このあたりのことは、かなり微妙ですね。
でも、慎吾がスマスマの楽屋で知った、という時点よりもっと前に、中居君の元には情報が伝わっていたのは、確かでしょう。
そして、このスポーツ紙に出た朝。
この日は福岡でコンサートの日だったのですが、私のスマ友さん(中居ファン)が、偶然この日の福岡ライブに参加していました。
彼女から聞いた話では
スポーツ紙の一面にデカデカと載ったわけですから、コンサートに来たファンは、皆森くんがレーサー候補生に合格したことは、知っていたようです。
でも、私と同じようにみんな「マッチのようにレーサーとSMAPと両立するんだね」と解釈していたフシがあり
ライブ中のMCではファンから森くんへ「合格おめでとう~!」という無邪気な祝福の声が、あちこちからかかっていた・・・と聞きました。
ですが、森くんはその声に一切応えず・・・
というか、SMAPのメンバー全員、会場からの「おめでとう」の嵐に、誰1人リアクションしなかったと。
その当時のライブは、MCの中でメンバーが会場にいるファンからの質問を受け付けたりしていて(今年のファンミみたいなもんですね)
会話のキャッチボールをしながら、MCを進めていたような流れだったので
誰もその話題に触れず、そしてファンの声に応えず、全員すごく硬い表情をしていたのが、友人にとっては不思議で仕方なかったそうです。
そりゃそうだろうなぁ・・・ファンにとっても、そんな風に違和感の残るライブだったのでしょうが
この日の舞台裏は・・・きっとものすごく大騒動だったのでしょうねぇ・・・
この時の、森くんの胸中を想像すると、本当に胸が痛いです。
>ああ、もうここまできたんだから、絶対ダメだ
彼の気持ちをダメ押しした、運命の日・・・その日に思いを馳せるのは今でも少し辛いです。
森くんの気持ちは、そんな風にこの対談の中で語られています。
じゃあ、それ(辞めること)を聞かされた中居君は?というと・・
>SMAPにとっては去年(95年)、一昨年(94年)ぐらいからがちょうど軌道に乗ってきて、やっと芸能界でも認めてもらえ始めた時期で、それで今年になって自分達の大きな番組持てるっていう、この時に・・・
>俺はなんとしてでも、残ってほしいじゃないけども、ずっとやってきたから。
やっとここまでこれたから。一緒にやりたいっていう気持ちの方が強かった
と、偽らざる心境を語っています。
そりゃあ、そうでしょうとも。
私達でさえ「何で!?辞めちゃイヤだ!」と思ったわけですから、当事者の中居君が初めてそれを聞かされた時のショックと戸惑いは、相当なものだったでしょう。
まして、「やっとここまできた」というように、時代はまさにSMAPを求めていたいわゆる「ブレイク」の真っ最中ですよ。
売れない時代ならまだしも、さあ、ここからが本当の勝負!と皆が更に気合を入れようとしていた、まさにその時期ですからねぇ・・・
中居君が「何としてでも残ってほしい。一緒にやっていきたい」と思うのも当然でしょう。
でも中居君は、森くんのお父さんと話し、彼のお父さんの気持ちを聞きます。
そして
>森の話を聞いた時、一番最初に兄ちゃんに相談した。「兄ちゃん、俺、どうすればいいんだろう?。今俺は何をやればいいんだろうな?」って。
そしたら「やっぱり、やりたいことをやらせてあげた方がいいんじゃないの?」って兄ちゃんも言っててさ。
と、自分の身内に悩める心境を相談していたことを打ち明けています。
今でこそ、冷静沈着で、抜群に頭の回転が早くて、的確な状況判断のできる、最強のリーダー、中居君ですが
当時はまだ23歳になったばかり・・・
自分のするべきことに迷いがあっても当たり前ですよね。
この時直面したSMAPにとっての最大の危機は、1人で超えることは難しかったのかもしれません。
でも、そんな中居君に対して
「やりたいことをやらせてあげれば」と助言したお兄さんって・・・素晴らしいなと、感動しました。
身内なら普通、グループの存続自体が危うくなるようなことに、なかなか賛成は出来ないですよ。
迷う中居君の背中を押してくれた、お兄さん。凄いですよね。
このお兄さんは、森くんの最後のコンサートも見に来て「最後だね。今までありがとうね」と森くんに声をかけます(それも、皆がいないところで、ですよ)
森くん、それで
>わぁ、本当に最後なんだ、と実感した
と言ってますが・・・もう、このあたりは涙が出て仕方ないです。
お兄さんの言動でわかるように、中居君の、自分のことより人のことを思いやる、誰よりも優しく広い心は、ご家族に共通するものなんだなぁ・・
きっと中居君は、そうやって育ってきたのだろうなと思う時、心底、中居家の三兄弟を生み育てたご両親を尊敬します。
そして中居君は、心を決めます。
>そこまで強く森が強く思うんだったら、批判するんじゃなく、気持ちよく送ってあげたいなって。
最後の6人のコンサートとなった浜松では
>もうずっと森の顔見てたもん、俺。
いつもの森じゃない。いつものステージングじゃない、っていうのが俺にはわかった。
日頃、常に控えめな森だけど、最後の礼は真ん中でしてほしいと思った。
あの礼をする時、「あ、もう二度と6人で頭を下げることはないんだな」って思うと淋しかった。
次のツアーはあっても6人で手を挙げてお客さんに「ありがとう」っていうのはもう二度と戻ってこないんだと思うと淋しかった。
と、その時のことを語っています。
森くんにしても、このコンサートは忘れられない思い出、と言っています。
>辛かったのは、ファンのみんなに最後だって言ってなかったこと。まだ言っちゃいけないことだったから、言えなかった。
心の中でずっと「ありがとう、ありがとう」って言いながら踊ってた。
私は、この当時コンサートに行ける状況ではなかったので、この浜松のラストライブが何月何日だったのか、よく知らないのですが・・・
おそらく、メンバー全員、もう森くんが辞めることはわかっていたのでしょうね。
でも、それをファンには言ってはいけない。悟られてもいけない。
・・・・どんな気持ちで、6人はステージに立っていたのでしょうか。
想像するだけで、心が痛いです。
とりわけ、森くんのその時の気持ちを思うと、辛いですね。
自分に会えて喜ぶファン。
また次もすぐに会えると信じてるファンの顔を見て、自分の口からお別れもいえないまま、去っていくことがどれだけ辛かったか・・・
森くんは、SMAPの活動の中で「ライブが一番好き」と言っていました。
ファンと直接触れあい、コミニュケーションが取れる場所が大好きだと話していた彼が、その大好きな場所で自分を偽ったままでファンと最後の別れをしなければいけないなんて・・・
それは、なんて残酷な現実だったのでしょうか。
ですが、皮肉にもこの浜松のライブは、フジテレビの「HEY!HEY!HEY!」の中継が入り、正真正銘、森くん最後のライブ映像として、残ることにもなりました。
当時はもちろん、誰も森くんの脱退を知る由もなく、私もごく普通に番組を録画していましたが・・・
あとで見返すと、森くんの映され方が、とても印象的なのですよね・・・
途中で、森くんだけが全身くまなく映されるショットが何度か入り込む。
あの時は「何で森くんだけ、全身?」と思ったほどです。
そして心なしか、メンバー全員の表情が硬いのに、森くんだけは、皆を安心させるような、柔らかい笑顔を見せている。
普段の歌番組とはあきらかに、森くんの扱いが違うような・・何かを暗示しているような映像に見えて仕方ない。
このカメラマンさん・・・森くんの脱退、知っていてあんな風に映したのかな?
なんてあとで思ったものです。
もしも、何も知らないでああいう映し方がされていたとしたら、それはそれで、すごいことだとも思います。
真実は、どうなんでしょうね。
そうそう。
この「浜松」という場所・・・
実は、森くんがオートレーサーになる試験を受けた場所だと聞いています。
一次か、二次かはわからないのですが、SMAPの仕事のスケジュールの都合で、どうしても東京で試験を受けられなかった森くんは
わざわざこの浜松の地まで来て、試験を受けたのだということです。
森且行という人間にとって
オートレーサーとしての始まりの場所と
そして、SMAPとしての、最後の場所が
まったく同じ土地だったという事実に、運命の不思議を感じずにはいられない私です。
そして
3月の末にオートレーサー候補生の試験に合格したことが公になってから、わずか5週間後。
96年5月7日。
森くんは、中居君の立会いのもと、SMAPを引退してオートレーサーに転身することを、記者会見で発表しました。
ジャイアンツのユニフォーム姿で会見場に現れた中居君は
「僕も野球選手になるのが夢だったから」と周囲を笑わせ、終始明るく会見をリードしていました。
中居君の口からは
「SMAPは解散しない。森の代わりのメンバーを入れることもしない。残る5人でやっていく」
との決意表明がされ
森くんに対しては
「今までありがとう。これからは陰ながら応援していく。もし、戻ってきたくなったら、また迎えてあげるからさ」
と、笑顔でエールを送っていました。
>淋しくないっていったら嘘になる。
でも、終わりじゃなくて森にとっても、俺らにとっても、これからがスタートっていうことを考えればな。
対談の最後に言っていた言葉を実践するような、中居君の見事な会見でした・・・
でも
そこに至るまでの、中居君の、そして森くんの、他のメンバーの心の葛藤を想像する時
胸が潰れそうなほど、色々な思いがこみ上げます。
決して表に出ることのない、彼らの気持ちを思う時
20年間で一番衝撃的だった出来事として、この森くんの脱退が挙げられるのは、ごくごく自然な気がしてなりません。
最年長の中居・木村が23歳。
最年少の慎吾はまだ19歳の時です。
一歩間違っていれば、本当にSMAPが空中分解してしまう可能性もあったでしょう。
よくぞ乗り越えてきたなぁ・・・と心から思います。
でも、
去る方も、残る方も、無傷ではいられなかった出来事のはずなのに、
決して憎しみあったりしないで
今でも互いをリスペクトし合い、エールを送り続ける6人の凄さもまた、並の人間ではないと思えます。
森くんがSMAPにいた8年間。
6人で頑張った時期に培われた絆は、グループ最大の危機をもってしても、決して壊れることはなかったのですね。
その事実に胸を打たれます。
次回は、メンバーの立場ではなく
慎吾が話題にもしたスマスマのスタッフから見た、「あの時」のことを検証していきたいと思います。
どうか次も、お付き合いくださいませ。