「誰のために作る映画か?」ということ。
世の中には、映画というものを勘違いしている人がいる。
というか、僕自身も全てを分かっているわけでもない。
あの黒澤明でさえ「まだまだ映画というものが分からない。だから作り続ける」と、
『影武者』か『乱』の時に言ってました。
ただ、少なからずや、僕なりのやり方で映画に向き合っているつもりだ。
というか、これからも向き合っていく。
そんな中、何のために映画を作るのか?
を、問いたくなるような人たちに遭遇すると、正直まいってしまう・・・。
何のために?
というよりも、「この人のために作る」という気持ちを常に持ちたいと思う。
それは誰でもいい。
キャスト。
スタッフ。
観客のみなさん。
ごくごく個人的には・・・親のため、妻のため、娘のためとか
その映画の着想を与えてくれた人のため・・・とか。
そういった想いみたいなものを、プロデューサーとして常に心に持ち続けて
映画を作っていきたいと僕は思う。
でも、そんな想いを踏みにじるような人が時々現れる。
映画というものを勘違いしている奴だ。
そういう人は、映画を作らない方がいい。
つまりは「人の心がわからない奴」。
そいう人と僕は映画を作れないし、作りたくない・・・。
最近、感動した一言、それは・・・あるキャストの方へ出演交渉をしていて、
そちらの事務所の社長さんから電話をいただいた時だ。
「是非、参加させて下さい」
この一言にはこれから作る映画への愛情が伺える。
「やらせて頂きます」とか「やります」とかではなく、
「参加する」という気持ち。
ああ、これが映画を作っていくという事なんだ。
一緒に作っていくものなんだ映画は!!!!
と・・・。
それなのに、それなのに・・・
「てめぇ、おい、やれよこの役~。やれねぇのかよ~、こらぁ」
みたいに、今までその「参加する気持ち」というものを育ててきたのにもかかわらず、
頭から水をぶっかけ、僕の顔に泥を塗るというか、こねたセメントをぶっかけて、
速乾して、固まるくらいの事をやってくれる人がいたりする。
違うのだ。
絶対に間違っているのだ。
一緒にやるということ・・・つまり映画を作る時、
僕らが一番大切にしなければならないことは、
参加する人たち全ての為に、それぞれがそれぞれの為に、
この映画を作っていこう!という気持ちなのだ。
それは、人によっては「お仕事」みたいになっていて、
「参加感」が最初は小さくても、
きっと、みんながみんなのために映画を作っているんだと気付く時がやってきて、
そんな想いが通じ合ったときに、
それはきっと凄い映画のパワーになるんだって思う。
だから、そんな想いに水をぶっかける人は、
その映画への参加券(あえて参加権ではなく)を持てないし、
そんなものはどんなに高いお金を積まれても、
どんなに強い権力を振りかざされても、
そのチケットはお譲りできないのだ。
いや、本当に。
誰かが誰かの為に作るという小さなきっかけが、
たくさんの想いを集合させて出来ているのが映画なんだと思う。
それが実は
「観客に届く映画」
なんじゃないか?
僕にセメントをぶっかけて速乾させて固まらせた人には
到底分からない事かも知れないが、
そんな映画作りを僕は常に目指していきたい。
いつも映画は、誰かのために作られている。
絶対に。