プロデューサー=「好き」というキーワード
最近というか、常々思うことを、
今日、ある人と熱く語ってしまった。
それは、
「本当に好きだと思ってしている仕事か?」という話。
映画が好きだ。
映画の仕事がしたい。
この二つの文章に僕らの仕事をしていく上でのかなり重要な意味が隠されている。
前者は、単純に「映画が好き」であって、
「観るのが好き」というだけかも知れない。
後者は、「映画に携わる仕事がしたい」であって、
「映画が好きじゃない」かも知れない。
と、まあ、回りくどい言い方かも知れない。
つまりは本当に好きで、その仕事を選んだのか?ということを
問いたくなる人たちがたくさんいるという話だ。
本当に映画という仕事を好きかということが、
一緒にやっていて疑わしいくらいになってしまう人がいる。
この仕事は腰掛けでは出来ない。
会社に来て、デスクに着席して、パソコンとにらめっこしていても、
そこからは何も生まれない。
人に会って好きな映画の話や企画の話をし、
「今度こんな企画か゜あるンですけど・・・・」と、
売り込み、仕事を作るのが僕らの第一歩だ。
それを会社にいるだけのまさに「腰掛け」では、
企画は生まれていかないし、
会社のブランドと中身のギャップを生んでしまう。
親会社から下りてくる企画をせっせと形にしているだけで、
自分発の企画などない。というか、それよりも与えられた仕事を
しっかりとこなすことを求められる。
「これが本来のプロデューサーの姿か?」
そのギャップに耐えられず、
僕はサラリーマンプロデューサーを辞めた。
「腰掛け族」は本来は自動的に年収が減っていき、
自分なりのリスクを背負うという厳しさに一度は気付くべきだ。
「腰掛け族」になるかならないかは、
まさに「好きか?嫌いか?」の部分に大いに関係あると思う。
例えば、若かりし日、
「格好良さそうだから」
「女にもてそうだから」
「華やかだから」
と思ってこの業界に入った人は、
自分の中のギャップがどんどん広がっていくはずだ。
それに気付きつつも、日々を過ごし、
どんどんイライラが増す。
それに気付かない人もいる。
僕らの仕事は、「好き」じゃなきゃ務まらない。
「好きこそものの上手なれ」というが、まさにその通りだ。
世の中に「プロデューサー」という肩書きを持った人が
どれくらいいるのだろう?
何でもかんでもプロデューサーと言ってしまえばそれでいいのか?
本当の意味で「好き」なことをゼロから立ち上げて、
仕事に繋げていく。
それに賛同した人たちが集まってくる。
その人たちに「よしやろう!」と思わせる力は、
僕たちが「好き」という気持ちがどれだけ熱く、
そして、心動かされるものかということが伝わる事なのだ。
そのパワーが強い人が、もしかしたら、
真のプロデューサーなのかも知れない。
自分が作りたいものはこういうものなんだ。
伝えたいことはこういう事なんだ。
と。
しかし、
それだけでは物事は動かない。
それが世の中でもある。
それをビジネスという観点でも納得させて行かなくてはならない。
それは百も承知だ。
「想い」と「現実」両方をしっかりと繋げていくパワー。
しかし、最終的には「好き」と「伝えたい」というパワーが勝つはずだ。
仕事以外でも、
恋愛でもそうなんじゃないだろうか?
僕はそう思う。
一本の映画を作ったとき、
それをたくさんの人たちに観てもらいたいという当たり前の気持ち。
実はそれが「好き」という想いから始まっているんだ。
そうじゃなきゃ作ってはいけない。
ある人から聞いた話だ。
「どんなに巨額な製作費で作られ、マスによりその作品の存在が伝えられたとしても、
作品自体に込められたメッセージは実際に観て貰えなければ伝わらない。
“たくさんの人たちに観て貰う”という、映画ビジネスの基本的な成功の秘訣は、
最終的に製作者がそれらに関わる人たちや観客にどれだけ会いに行くかということに他ならない」
と。
今度、公開する作品があります。
こんな想いで作りました。
是非観て下さい!よろしくお願いします!
これが基本だ。
その「好き」から始まっている「想い」を伝えていく。
そして作品が伝わっていく。
僕らは常に「好き」から始まっている。