沢山の中から見て頂いて、ありがとうございます😊

 

昨日の今日は、

このタイトルで書いていました。

 

ここから南へ200〜300m行くと

自衛隊多賀城駐屯地があります。

川沿いを東へ歩くと

自衛隊の中が見えるし

私のウォーキング6キロコースだと

衛兵のいる正門前を通ります。

①30代の頃、

    綱引きの練習で

    体育館を借りた為、正門から入りました。

②子供会の行事で、

   自衛隊デイキャンプというのをやり

   広報のお部屋で3回打ち合わせをして

   徒歩で中をグルーつと案内してもらい

   当日はジープに乗せてもらい奥の山道・悪路

   飛び跳ねながら走行したりして

   子供たち(付き添いのお母さんも)大喜び。

   お昼は食堂で自衛官たちと並び

 その日のメニューはカレー🍛で

「ほれ、もっとわけろ」とか言われながら

 子供たち、自分でチョビっとご飯を盛って

 チョビッとカレーをかけて食べていました。

 確か、牛乳とプリンか何か🍮もついたような。

③朝のウォーキングでも、土手で自転車の

 迷彩服の自衛官に追い越されます。

 

朝、キッチンの窓から外を見ながら

調理をしていると、

装甲車が西へ向かって通ります。

はじめ「戦車が行くよ」と言って

『装甲車』と訂正されました。

 

震災の時、

炊き出しで温かいものを提供しながら

自衛官みなさんは冷たいご飯を食べていたと

聞きます。

 

叔父は、雫石上空で自衛隊機と全日空機が

衝突した時の処理に行きました。

 

岩手宮城内陸地震は

6月14日でした。

小学校の父の日の参観日に行く為

玄関で靴を履いていた自衛官パパ

その時起こった地震で

行く先が小学校から駐屯地に変わりました。

「2週間帰って来ない」とあとから聞きました。

 

昭和53年の宮城県沖地震は6月12日夕方

 

でも、何より自衛隊を感じたのは

1983年4月の利府の山火事。

当時はまだ古い家と店で

目の前の旧道を

西門から出てきた、

荷台に自衛官(兵隊さん)を沢山載せたトラックが

列を為して毎日出発していき

夕方戻ってきました。

 

埼玉にも駐屯地はありますが

草加から春日部の東武線沿線にはないので

 

今なら、お願いします🤲。

頼りにしてますと思うのだけど

当時は

毎日兵隊さんを見ると

戦争?と不安に思いました。

 

朝土手をウォーキングしていると

自衛隊の中を徒歩でパトロールしている2人連れ

ジープでパトロールしてる2人連れを

見ることがあります。

 

消防士・海上保安官・自衛官などの皆様は

毎日訓練をされています。

『海猿』の中で、すぐ懸垂していたの

覚えてますか?

奥さんたちに聞くと「あれ本当」だそう。

そしてご本人は

「我々が表に出ないで、忘れていられるのが

 いいこと」

と言われました。

伊藤英明は、いつもありえない危険な所に

行くでしょ。

アレは無いのね。

「1人でも部下を持ったら、

 無事に家族の元へ帰すのが、上司の責任」

 

私が海や川で人命救助をする可能性は無いけど

どんなに達者な人でも

一人で一人を助けられない。

まず騒いで人を集めて

3人チームで1人を助ける。

3人以外の人は救急車を🚑呼んだり

タオルや似たようなものを準備したり、

出来ることはいくらでもあります。

声援でも見守りでも祈るでもいいから

知らん顔・無関心でいないこと。

 

今朝のウォーキングは、

土手の草が刈られたので向こうの土手を

歩きました。