あれから、7週間が経ちました。

あっという間のようであり、ずいぶん時間が過ぎたようにも感じます。

正直、まだ実花がいないという現実は信じ難く、まだ電話をかければ出てくれるような、待ち合わせをすれば、「お姉ちゃん~」と小走りで、近づいてくるように思えます、

自分のブログにも「さよならは言わないでを書きました、


葬儀には400人を超える方が来て下さいましたが、49日の法要にも、友達がたくさん来て下さり、40人以上の法要となりました。


会葬者に夫である裕二郎君がお配りしたご挨拶の手紙。

一部紹介させてもらいます。


42年という享年はいかにも短すぎますが、
これも天命と思えば、やはり受け止めなければなりません

しかし 受け止めるにしても
悲嘆にくれながら受け止めるより
妻とともに幸せに過ごせた歳月に感謝しながら
受け止めていくほうが
どれほど大切かは今更比べるまでもありません

いまだ妻が亡くなった実感が涌かず
今も耳をすませば私を呼ぶ声が
聞こえてきそうな気さえしてしまう毎日です

ただ かけがえの無い存在を失った空同感は
一ヶ月たった今も 日増しに多くなっているのは事実ですが

周りの人間を大切にし そして愛し
人の為には労を惜しまず
強く前向きに生きた実花のためにも
私が明るく元気に毎日を過ごしている姿を見せることが、
亡き妻の一番喜ぶことと信じて頑張ろうと思います。



最後まで、本当に、最後まで、明るさを保って、笑顔で妹と接してくれた、義弟に心から感謝しています。

あの日、呼吸が遠のく実花の手を握りながらも、最後まで2人で笑顔で声をかけ続けた2時間。

優しい笑顔のなかの裕二郎君の強さに本当に支えられました。

だから、私は今もこれからも「極上の笑顔で」




MIKAのブログから来て下さった方へ。

2年前の発病の時から、このブログを始めました450人も年賀状を出すという妹の沢山の友達、知人、仲間に、病気との日々を知っていただきたくて、そして一緒に祈って欲しくて、始めました。

私の想いだけでじゃなく、母や、兄弟、妹を愛する皆からの気持ちのこもったメッセージも出来るだけ、ここに掲載してきました。

一昨年には、ずいぶん体調がよくなり、自分でブログが読めるようになったので、このブログはずっとストップしていました。

弟が芸能界にいる事もあり、本名で書く事が出来なかったので、「リカ」として書いてきました。
妹のブログを応援して下さってありがとうございました。


闘病の記録は
右矢印こちらから読んで下さい。




友人家族の皆さまにに宛てた手紙から~



私は4人兄弟の長女。末の弟は、笑いの仕事をしています。上の弟は、私同様アメリカに20年暮らし昨年帰国して、今はライフワークとして東北の支援活動をしています。

なぜ、弟が急に昨年帰国したかといいいますと、実は、妹が一昨年の今頃から言動がおかしくなり、精神の病かと思われたのですが、去年の2月に診断がついた時には、グレード4の脳腫瘍、悪性グリオーマで、余命2カ月と告げられました。

外科手術は不可能で、テレビで話題の神の手と呼ばれる外科医に弟が芸能界のつてを使って、MRI画を見てもらい、そのキセキの手に期待もしましたが、答えは「手術は不可能」でした。

3年前に出来た新薬を使えば、長くて2年は延命出来るだろう、と言う事で、放射線治療とその新薬を
使用。3年前だったら、ほとんど数カ月の命だったであろうと言う話です。

記憶や判断能力をつかさどる、部分の脳に腫瘍がべったりと巣食っていたために、自分で病気に対しての判断力などがなく、通常の末期患者のように、本人に病気に対する自覚がないため、病片を切り取るために、

前頭葉を大きく切り開く手術をしましたが、本人はおっとりと、記憶と夢と現実の中をさまようような状態ではあるものの、気落ちする様子もなく、元気そうに見えていました。

突然にやってきた家族の病に家族は戸惑いましたが、次弟がこう言いました

「姉ちゃんは、自分の事を悲しんでいない、自分を可哀想がってもいない、俺たち周りも悲しむのはやめよう。可哀想がるのはやめよう、笑おう、楽しい事を一緒に一杯しよう。姉ちゃんを楽しい気分にしてあげる事が免疫にも役に立つはずだから」と。


皆さんもご存じなように、母も、弟も私も、人前に立ち華やかな笑顔でいる事を仕事としていますが、
ほんとうに悲しい時にもそのようにふるまう、まして、お笑いの仕事として人を笑わせる、という仕事をしている弟の言葉に、胸打たれまして、その時から、家族一丸となって笑いの日々を送るようにしてきています。

病気が解った時に、私は、沢山の人に祈って貰おう、毎年300枚もの年賀状を出す妹の友達たちにも、毎日祈って貰おう、その祈りのエネルギーがきっと妹の病に奇跡を起こしてくれるからと信じ、

友人家族の皆さまにも「一緒にただ祈ってください」とメールしました。弟の仕事の関係上、本名で書く事は許されなかったので、偽名でブログを書き始め。妹への気持ち、家族やみんなからのメッセージ、治療の経過報告などを家族、親戚、友人たちに読んでもらいました。

当時一緒に住んでいた彼は、仕事をやめ、24時間介護についてくれるようになりました。
一時は、歩く事が出来なくなり車いす生活だった妹の世話をしてくれるためにです。

一度は花嫁姿を、と妹の友人たちが用意してしてくれて、病院で家族そろって、結婚写真も撮りました。
長弟は、これ以上対岸で見守るだけではいられないとして、

たった一ヶ月で、アメリカでの20年の生活を捨てて、帰国してきてしまいました。彼の家族は、半年かけて準備して帰国。ついてきてくれた弟嫁に感謝です。

私が、私立の中高一貫校に通う2人の娘を1人は高校受験させ、1人は公立中学に転校させてまで、東京に戻ってきたのも、妹のそばで過ごしたいという思いからです。

そうして、家族で集まっては、漫才のまねごとをしたり、結婚写真を取ったり、次弟に赤ちゃんも生まれて、
いつも、いつも、幸せそうに穏やかに笑っていられる状態を続ける日々

奇跡が起きました。

腫瘍が10分の1までに減ったのです。これは担当医も驚くほどの回復力でした。歩けるようになり、記憶の障害もへり通常の生活が出来るくらいに回復し、母と観劇に行ったり、みんなでカラオケに行ったり、私が内緒で書いていたブログも本人が「こんなに大変だったんだねぇえ~」とのんきに笑って読める位に。

ところが、病はまだその手をゆるめませんでした。

今年の5月に再発。今度は、カラダのバランス機能をつかさどる小脳に転移。
また余命が3ヶ月と告げられました。

その宣告と同時に彼は妹との入籍を決めました。その日からの日々を夫婦として過ごしたいからと、

その彼の想いに答えるために親戚と親しい友人を集め、小さな結婚パーティをしました。
病院で写真を取った時よりも10数キロ痩せて、太り過ぎだったときよりも綺麗になったようにすら見える、

妹はウエディングドレスも縫い縮め、放射線治療でまた抜けてしまった髪をカバーするように私がカットして、 その日の妹は、人生今までで一番綺麗でした。


今回の再発では、私はもうブログを書いたり、友達に祈ってくださいとお願いする事はしませんでした。

3・11を経て、ああ、自然というのは、こんなにも急に愛する人の命を奪っていくのものなのだ。
病を持っていていもいなくても、本当に突然に、残酷なくらいに。あっという間に。

生きている、毎日、朝起きられる事の方が奇跡なのだ、と思えるようになったからです。

妹の明日が解らないように、私達の明日も解らないのは皆同じ。

それなら、お互いの為に祈り、お互いの為に笑顔を向け、今日一日を極上の笑顔で過ごしていく事が
大事なのだな、と感じるようになったからです。

5月に余命を告げられた時から、もう半年。奇跡を紡ぐ毎日が続いていましたが、12月頭に、彼が、また妹の症状が少し変化しだした、と覚悟を決めたような表情で告げてくれました。


悲しいほどのお天気だった1月7日朝5:08に、妹のりかが眠るように旅立ちました。


2度目の再発後に入籍した次郎君と私が2人で見守るなか、少しづつ呼吸が途切れ、最後の息を引き取とりました。

とても安らかで、幸せな寝顔のまま、静かな最期でした。

次弟夫婦の理解と協力と愛情のおかげで、次弟夫婦の家のリビングで最期の半年を過ごしみんなでワイワイクリスマスや、お正月を過ごす事も出来て、元旦には家族全員が1人も欠ける事なく全員集合し、新しい年を実花とともに祝う事が出来、笑顔で写真を撮ったばかりです。

年を越す事も難しいと言われ12月からも、次郎君はまめまめしい介護で、リカのわがままにもニコニコしながら付き合い、カラダの自由がきかなくなり始めたリカのために、カラダのケアも、お口の中のケアも、本当にリカが気持ち良く過ごせる日々を送れるように、最高の旦那様であり、介護人でした、

私も毎日のように通い、一緒にテレビを見たり、ばかな思い出話をしたり、いつだってリカはいつもどうりの憎まれ口も聞き、うんちくを語り、また旅行に行きたいねと話していました。

無駄な延命をする事を選ばず、リカの身体が自然にその時をを迎えられる道を選んだので、最期まで、一本の管に繋がれる事なく、自然に眠るように、旅立って行きました。

おくりびとである女性納棺師のお手伝いをかりながら、妹らしい死化粧もさせてもらいました。

ほとんどメイクもしない妹の肌をそのままに生かし、ほんのりと頬紅をさし、優しい色合いのリップを塗り、先月カットしたばかりの髪のクシを入れました。

まさか、妹のこんな身支度を手伝う事になるとは思いませんでしたが、皆の知っている妹らしい寝顔を作ってあげる事が出来ました。

昨日も今日も、兄弟家族親戚と、あれこれリカが最後まで、偉そうに義弟にダメだししたり、のんきな事を言っていた話に笑い、妹も一緒に笑っていました。今にも起きて笑い出しそうに自然にそこに寝ています。

笑顔で、リカを見守ろうと、笑いながら泣き、泣きながら笑った2年間でした。

朝、3時に次郎君からの電話で駆けつけたタクシーの中から見たお月さまは、14番目の月でした。

りかは、まだゆうの自宅でほほ笑むようにして眠っています。

昨日は満月。冬の寒い空気の中で大きなお月さまが輝いていました。リカはかぐや姫のように月の向こうに帰って行ったのかもしれません。



月の向こうは、光にあふれていますか?





リカの死を通じて、私は学んだ事が沢山あります。生きている奇跡、命の大切さ、友人や家族と繋がる事。

私は沢山の人のココロとカラダを綺麗にするという仕事を人生のミッションとしていますが、それは、生まれてきた命に感謝して、生きている奇跡を大事にして、出来れば笑顔で生きる事で、笑顔の連鎖で、世界を幸せにしたい、とういう思いからです。

妹と病に向き合うようになってから、カウセリングなど、心のケアを学び始め、自分の、このミッションに気付く事ができました。

妹から、私の生き方を学ばせてもらえたのです。


そのリカの死の意味を私が自分の生き方に反映さえて行く事、それが、妹を「生かす」事に繋がると思っています

震災で亡くなった方たちの死もまた同じ。

残されたものがどう生きるか、は、亡くなった方の死を、命を生かす事になるのではないか
と強く感じています。

今は、リカの死を本当の意味ではまだ受け入れる事が出来ていないような気がします。けれども、妹とともに、私が生きる事を受け入れて、自分の生き方を探していきたいと思っています。


このブログで見守って下さっていた皆さん。

皆さんに守られて、リカも私達も大切な時間を過ごさせていただきました。


本当にありがとうございました。

3ヶ月ぶりの更新です。

更新がないので、心配してくれている方もいるようなので、その後の事を書きます。

なんと、りかが、ブログを再開するまでに回復しました。

10月にも東京に行って、カットもし、カラオケにも行き、家族みんなで食事にも行きました。

治療のためのマッサージのおかげか、もしかしたら、脳腫瘍のせいでむくんでいたんカラダだったのが、循環が良くなったのか、ずいぶん痩せて、すっきります。

話しも普通にするし、小走りに走れる位にまで、成ったのです。
ただ、腕があまり上手く動かないので、1人で着替えをしたりするのが、難しいのですが。

りかは、今は毎日、かずまとゆうの事務所に裕君と通ってます。

先日皆で食事に行った時に、りかを真ん中にして、かずま、とゆうが、「会長!」と言って、両側に座っているのをみて「私もいれて~私もなんか役が欲しい~」とだだをこねましたが、

「りかは毎日出勤してるんだ。姉ちゃんはなにもしてないぞ」と却下されました。(=`(∞)´=)

とまあ、あり変わらずの私達です。


このブログを書き始めた時、いつか元気になって笑いながらりかに読んでもらいたい。「へ~大変だったのね」「全然知らなかったわ~、」なんて、拍子抜けするぐらいに言われる日が、絶対に来る。

その日のための記録なんだ。との思いで書いてきた日々。

それが本当に現実になりました。

このブログで支えて下さった皆さん。ありがとうございました。


りかが去年倒れるまで、毎日書いていたブログをまた再開してくれた事が嬉しくて。

そこまで元気になってくれた事が本当に、信じられないくらいに嬉しくて

私のメインブログにもその事を書きました。アメンバー登録しないと読めないのですが、一応あんまりネットには流れない情報で、でもブログを通じて応援してくれた方にお礼が言いたくて、そのようにしています。

こちら


そしてこちらが りかのブログです</a>

本当に、支えてくださってありがとうございます。
このブログでの祈りもりかに届いたのだと信じています。

これからも、りかの事を見守って下さいませ

そしてみなさまにも「極上の笑顔で」感謝を…



始めて来てくれた方へ
クリップここから読んで下さい。

東京に行って来ました
りかを囲む会にも出席してきました。

いつもは東京に行く時は
ハサミなど仕事道具を持っていくのですが、
かずまとゆうが始めた事務所の近くに
河野家の従妹のサロンがあり、
かずまもゆうもカットしてもらっているので
りかも従妹に頼めばいいね。なんて思って、
今回は飛行機と言う事もあり、
機内持ち込みにハサミがいつも
引っかかって面倒なこともあって
ハサミを持って行きませんでした。

でも、りかは
私の顔を見るなり
「お姉ちゃんにカットしてもらいたいの」と言います。
「みつおちゃんに頼んだら?」
「お姉ちゃんがいいの!」

従妹のみつお君は私が切り出すませから
「おねえちゃん、場所もハサミも使ってね!」
「りかちゃんのカットしてあげてね」と
言ってくれました。


$極上の笑顔で~脳腫瘍と向き合う日々に

放射線と手術で抜けた髪が
数ミリ生えてきて、眉もずいぶん生えてきていました。
そこで、思い切って後の髪を短くして
前髪に作り、襟足をはねさせた
カワイイ感じにしてみました。

笑顔も自然に出るようになり、
2カ月前からは見違えるようでした。

りかと沢山話をしてきました。
嬉しい報告もあります。

その事は近いうちにまた書きますが
今日はりかのこの表情を
見ていただけたら、嬉しいです。
リカから電話が来て長い時間話す。
もうほとんど以前のリカと変わらない。

ただ、話の途中で突然違う話になったりするけど、
それは、私たちでもよくあること。

時間の概念がまだ少しあやふやで
記憶違いがあるようだ。

リカが初めて母から自分の病名を聞いたという。
今まで自分の病気が良く分からず
回りの様子から癌で余命が短いのかな、
というように感じていたらしい。

母が去年の11月にまで
話を遡ってリカに説明すると
本人には記憶がほとんどないらしい。

覚えているのは
病院のベットの上からだとか。

それもどの時点でのベットの上なのかな。
時間の前後は時にまだあやふやだ。


リカと話したあと
電話では解らないリカの様子を聞くために
母と話す。

久しぶりに長い電話となった会話を終え
リカの病気を考える。

「完治は難しい病気」

それは、とても酷な事のように思えていたけど、
思えば、義母は「膠原病」という難病指定を受けていた。
祖母は「リュウマチ」を抱えながら
私たち孫4人を育ててくれた。

世の中には、「治らない」とされている病気や
「余命数カ月」という統計的数字のレッテルを張られて
それでも、生き生きと人生を送っている人が
沢山いる。

由美さんしかり、芥川さんしかり、

完治と言う事だけを考えなくても
リカがリカらしく過ごせて、
自分の人生を「生きて」「生き続けて」くれる事。
それが私たち、健康に思える人間と同様に
大事な事なのだ、と思った。

リカは、自分の病状を知り、
自分の過ごしてきたこの半年間を
少しづつ知ろうとしている。

そして自分を取り戻し、
今は「病を抱えている自分」を受け入れ
その中で人生を選んでいこうとしだしている。

このブログを書き始めた時に
リカが元気になった時に
「へ~こんな事あったの?
大変だったのね」なんて、
読み返してもらえる記録としても
残していこう、という気持ちがあった。

もしかすると、もうすぐ
リカにこのブログを読んでもらえる日が
来るかもしれない。