120308_120029.jpg
こんにちは。森田遊です。

今日は私の48年の人生で18才でシンガーソングライターを目指す決意をしてから30年………
私の人生の中で一番の決意をお話させていただきます。

考えてみれば神奈川県の平塚市で生まれ育ち、家の近くの小学校、中学校に通い、
山の中にあった地元の高校に通い、野球、バドミントン、
そしてピアノをただひたすら頑張った青春時代………… 
奇跡的に受かった音楽大学………

私は今振り返っても、スポーツ、音楽、一生懸命やりました。
なんの将来に対する不安もなく、希望に満ちあふれていました。
しかし、大学一年の正月元旦………たった一人の弟がバイクで、即死……
この日から私の心、父親、母親、おじいちゃん、おばあちゃん………森田家は
奈落の底におとされました。

多分、その日以来、三年間くらいは、私達、家族はみんなで笑った事………
記憶にないくらい………それくらい、傷ついて、悲しみを一人一人、
それぞれが背負っている感じでした。

漠然と、シンガーソングライターになりたい………
思いながら音大に通ってた私は、弟のあまりにも無残な死と直面し、
さよならも聞けずに………ショックだったんでしょうね。
本当に仏門に入り、お坊さんになろうと思いました。

そこから私は弟の死の意味………ずっと考え、
森田繁夫がこの世に生きてた証を残したいと思いました。
弟の死を無駄にしたくない………ただその一心であれから30年、
どれだけ、私のいろんな出来事が、詰まった、この、30年の年月も、
この気持ちだけはぶれませんでした。


今年の2月末、被災地、福島県の相馬市に行きました。
津波で300人以上亡くなったそうです。
海辺は、流された後のさら地、鉄骨だけ残ったお家………
めためたにされた水産物工場………
私は静寂な海辺の街に車を降り、一人カメラを持ち歩きました。

何枚か写真を撮った途中に、なぜか、悲しくもないのに涙が出てきました。
感情が高ぶったわけでもありません。
今考えても不思議な感覚でした。

感じた事は、海辺の静かな街が泣いていました。

本当に泣いていました。 
まるで、私に
「おまえ………何しに来た!!!!帰れ!!!私達の悲しみなど、わかるはずも、なかろう!!」
耳元で吹く風が囁いているようでした。

私は写真を撮るのをやめ、その時は静かな海辺に近づいて、
手をそっと、合わせさせて、いただきました。
ただただ、それしかできませんでした。
その風の囁きは、家族とお別れしなければいけなかった人達の無念の叫びに聞こえました。

その日から私は毎日考えました。
そして、ようやく自分がこの傷ついた被災地に超微力ながら、できる事を。
弟の死から30年………ようやくまとまりました。
ピアノを弾いて、ほんの少しでも、被災者の方を癒す事………これは当たり前です。

もう一つできる事。

それは大事な家族を一瞬で、亡くした方………弟を一瞬で亡くした私が、
少しでも家族を亡くした方と気持ちを分かち合えれば………
生意気ながらそう思いました。

人間、一番つらい事は、自分より若い家族がわけわからず、
急にいなくなる………死ぬ事………そして残されて、
悲しみを 背負って生きていかなければいけない………。

多分、同じ思いをした人でなければ、わからないと思います。
しかし、私のように、私の両親のように、あれから長い月日が、
地獄のような悲しみが段々と本当にゆっくりとゆっくりと、悲しみを浄化してくれて……………
今は、元気に生きています。生意気ながら、これを伝えたいのです。

私ができるのは、本当にピアノ…………音楽しかまったく取り柄がないのです。
音楽を通じて、直接、被災者の方にお会いしたいのです。

もちろん、ふざけんな!!!お前に何がわかる!!!帰れ!
…………言われるのは、百も承知です。
言われたら、「出すぎたまねをして、申し訳ありません………」
言える覚悟はできてます。



今月、被災地に行かせてもらいます。
18日に宮城県の唐桑半島に行かせていただきます。
当日、仮設住宅に住んでいらっしゃる方々のカラオケ大会に
審査員とピアニストで呼んでいただきました。

私は、弟の死が決して無駄ではなく、30年たった今、
人様のお役に少しでもたちたい………ただそれだけなのです。
これは私の使命だと思うのです。

個人的には、先月、一生をひきずるかもしれない悲しい出来事もありました。 
しかし、私は人間として生まれてきた以上………
ピアニストとして天から授かった特技を生かし、
傷ついた人様のお役に微力ながら立ちたいのです。

今は、ただただ、ひたすら、ピアノを練習してる日々です。


次回は、今、進んでいる、CD制作について、お話させていただきます。


本日もありがとうございました。