森林と編集(12)松枯れの犯人を追う[後編・最終回] | 森田稲子のブログ

森林と編集(12)松枯れの犯人を追う[後編・最終回]

多数のマツノザイセンチュウを体にもって、前年に枯れた松から飛び出したマツノマダラカミキリは、目的の松に辿り着いた。目的の松とは外見は健康に見えるが、中では樹脂の流出が止まり、異常を起こしている松のことである。

外からは健全木、内からは異常木
この異常木はマツノザイセンチュウが創り出したものである。
マツノマダラカミキリは、健康な木には産卵しない。異常木や衰弱木、伐採直後の丸太などに産卵する。きっと豊富な樹脂の流出があると、卵や幼虫が生存できないなどの理由があるのだろう。つまり、マツノザイセンチュウは、マツノマダラカミキリの産卵場所を増やしてやっているようなものである。その代わり、カミキリにここまで運んでもらってきた。

それにしても、外から見たら健全木で、内から見たら異常木という松をマツノマダラカミキリは、どうやって見分けるのだろうか。異常木から発散される匂成分がカミキリの成虫を誘引するらしい。考えてみればこれもマツノザイセンチュウが引いた路線である。

安心して産卵できる場所を見つけたマツノマダラカミキリは、[後食]を始める。当年生から3年生の健康な松の小枝を次々にかじる。

カミキリの「後食」中に樹体内へ
この「後食」の際に、マツノザイセンチュウは、カミキリの気門から出てきて、カミキリがつけた「後食痕」から樹体内に侵入する。

この時も、マツノザイセンチュウは、見事な団体行動と、効率性を発揮する。気門から外に出たセンチュウは、カミキリの体を伝わって尾端の刺毛に集まり、後食中のカミキリの体から次々に傷跡がつけられた枝に効率よく移るのである。

だれが指令を出しているのか、それともカミキリとの間で情報交換がされているのか、とにかく不思議である。このときから松は病気にかかったことになる。季節は6~7月である。

マツノマダラカミキリの産卵から羽化脱出
後食によって、生殖機能が発達したマツノマダラカミキリの成虫は交尾した後、脱出1週間目、平均では3週間目から、産卵を開始する、産卵は樹皮に横長のかみ傷をつくり、そこに産卵管を差し込んで行う。

内樹皮(あま皮)部に1卵ずつ生みこむ。1頭の雌の産卵数は150~200で、毎日少しずつ産んでいく。産卵は7月下旬から8月中・下旬が最盛期である。

成虫の活動が最も活発となる温度は、27℃ぐらいである。18℃以下または30℃以上になると活動が鈍る。平均生存期間は約2ヶ月である。

卵は1週間ぐらいで孵化し、幼虫は産卵から1ヵ月後、材内に穿入孔を作り始め、ここから出入りしながら、内樹皮、辺材部をかじっている。終齢になってしばらくすると、材内坑道を広げて、蛹室をつくり、穿入孔の入り口に木屑をつめて次第に休眠に入っていく。この時期はほぼ10月下旬に当たる。

蛹室の中で越冬した老熟幼虫は、4月から6月にかけて蛹となるのだが、そこでまたマツノザイセンチュウの用意周到な行動が見られる。カミキリの脱出に備えてか、この蛹室の周辺にマツノザイセンチュウが集合するのである。

蛹室を囲むわずかⅠ~2mmの範囲にセンチュウは集合していて、春材部の仮道管に詰まるようにして入っている。羽化したら成虫の体にスムースに移るためだろう。

羽化したカミキリの成虫は1週間くらいは蛹室内にとどまり、樹皮に直径6~10mmの丸い穴をあけて温度の高い日に脱出する。

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マツノザイセンチュウの住みかと餌

ところで、松の樹体内に入ったマツノザイセンチュウは、どのような生活を送っていたのだろうか。マツノザイセンチュウが生活しているところは、{樹脂道}とよばれているところである。樹脂道は、材の中で、垂直、水平方向に分布していて、交差しながら、材の中を網目状に広がっている。

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マツノザイセンチュウは樹脂道を摂食や成長、増殖の場としているのである。また、幹や枝や根の中を上下、左右自由に移動できる道路としても使っている。

樹脂道は、主にエピセリウム細胞と言われる生きている柔細胞に囲まれている。

こうした場所でセンチュウの旺盛な活動を支えている餌は、何なのであろうか。まず糸状菌が考えられる。しかし、糸状菌の量は、発病初期でセンチュウが盛んに増殖している時期において、それほど多くはない。

猛烈な増殖
そこで疑われたのは、樹脂道をかこんでいるエピセリウム細胞であった。なんとマツノザイセンチュウは、旺盛な増殖のために、自らの住まいを餌にしてしまっていたのである。センチュウの増殖とともにエピセリウム細胞の破壊は進んだ。松の病状の急な悪化はそのためであった。

そのあまりにも早い病状の進行には、何か生化学的な作用も働いているのではないかということさえ疑われたのである。

接種実験では,樹体のどの部分からもセンチュウが検出されるようになって、爆発的なセンチュウの個体数の増加が観察されている。肉眼的には針葉の変色が認められ、枯死にいたるまでがその時期に当たる。

多くの試料を調べた結果でも、平均的に見て、センチュウ密度は、材絶乾量1gあたり1000頭で、1万頭に達する場合もあったのである。。

※材絶乾量(ザイゼッカンリョウ)
100~105℃に調節した換気の良い乾燥機中で恒量に達するまで乾燥して、木材からほとんどの水分を除いた状態(材絶乾状態)の質量。材中の水分量を一定にし、実験結果に影響を与えないようにする。


樹体内という限られた空間において,生息出来るセンチュウの個体数にも限界がある。当然、この時期をピークとして、さすがのマツノザイセンチュウも個体数を激減させるのである。

この自己破滅型の悲劇的な終焉は、日本各地で猛威を振るってきた松枯れ被害の様相と大きくダブる。日本の松をあらかた失わせた今でも、マツノザイセンチュウは生息不適地と言われる高冷地にまで侵入し、その勢力拡大をやめようとはしていない。松枯れの被害は、松が全滅するまで収まりそうもないのである。

異常な松枯れ現象
多くの研究者は、こうした状況は、自然界のバランスと言う見方からすると、異常と言うほかは無いと述べている。
一般に自然界の中では生物同士や環境との間には異常を抑制する作用があって、特定の生物だけが、極端な増殖や衰退をすることは珍しい。

たとえば、農作物と病害虫との関係でも、原産地の場合においてはその作物が病害虫に対して、抵抗性があるとか、天敵が居るとか、環境条件が被害を抑えるとかいう調整の働きが取れていて、大被害にはならない。

しかし、その環境とはまったく切り離された別の地から新しい外来の生物が何らかの理由で侵入したらどうなるか。その場合には、その抑制因子が取り去られて猛烈な勢いで増え広がる。

侵入者ではないのか
マツノザイセンチュウも、このような侵入者のひとつではないのか。日本の研究者の多くはこうした疑問を抱き始めた。

ここで、前回の中篇の中から次の二つの文をぜひ思い出して欲しい。
「この種類の線虫を見たものは誰もいない。過去の記録にもなかった。そこでこの線虫の認知は、名前をつけることから始まったのである。
和名はマツノザイセンチュウと名づけられた。」

「両氏は、かならずしも、その病原性を信じていたわけではなかった。というのも、線虫は枯死した樹木の材内の糸状菌を食べて生活しており、生きた木を枯らす力は無いというのが、これまでの線虫学の定説だったからである。」

この二つのことからも、第一線の研究者さえ、マツノザイセンチュウを知らなかったのであり、それほど遠い存在だったのである。

松枯れのほんとうの理由がマツノザイセンチュウであることが分かってからは、この線虫の起源について、多くの人は外国からの侵入を疑った。しかし、それを証明するには、この線虫の外国での分布が確かめられなければならなかった。

マツノザイセンチュウの起源

そうした矢先の1979年(昭和54年)にはじめて、アメリカで、マツノザイセンチュウの発見が報じられた。アメリカ・ミズリー州で発見された線虫は日本の林業試験場に送られてきた標本で、マツノザイセンチュウに間違いことが分かり、最初の記録となった。  

その後アメリカ全土での調査が進み、30に上る州でマツノザイセンチュウの分布が確認されている。

松枯れの被害が大発生した時、日本は、アメリカから大量の原木を買って、それを日本で製材加工していた。

したがって、その丸太の中に、アメリカ生まれのセンチュウが、数匹潜り込み、1万kmの海路を旅して日本に来たとしても、それはありうることであろう。
恐らくアメリカからの「マツノザイセンチュウ侵入説」は、事実だとおもわれる。
しかし、そのことについて誰を責められるだろうか。

外来種侵入の可能性について、検閲で決め細やかな対応すべきだったというけれど、マツノザイセンチュウの日本に入ってからの凄まじい適応力を理解すると、それについて一方的に批判することが、できなくなってくる。

マツノザイセンチュウマツノマダラカミキリの物語は、私たちに自然の厳しさを教えてくれているのである。

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