太宰治ゆかりの東京・三鷹市の跨線橋が老朽化で撤去されることになりました。このニュースを聞いて、むかし聞いた”あの話”を忘れないうちメモしておこうと思い立ちました。

 

 伯父・森敦は小説『月山』で芥川賞を受賞した後に、週刊朝日に『文壇意外史』という話を連載しました。その編集を担当されたのが永井萌二さん(ながい・ほうじ)でした。永井さんはジャーナリストの大先輩であると同時に、産経児童出版文化賞を受賞した童話作家でもあります。文芸記者・編集者として長く松本清張を担当されていました。わたしが、伯父の関係でお会いした時、永井さんは50歳台半ば近く、わたしは、大学の1年生か2年生でしたが、記者志望だと言ったせいでしょう。こんな話をしてくれました。太宰治の自殺にまつわる思い出話です。

【昭和23年。晩年を三鷹で暮らした太宰治が山崎富栄と共に玉川上水(今とはちがい当時は水量が多かった)に入水し、大がかりな捜索の結果、6月19日になって遺体が発見されました。大学出たての新米記者だった永井さんも現場に行かされていましたが、山崎富栄が生前、日記(手記?)書いていたという話が伝わり、新聞社の間で争奪戦が始まったのだそうです。その日記を入手できれば独占スクープ、大特ダネです。】

「某社(永井さんは具体的な新聞社名を挙げた)の記者なんか、やくざみたいなものですからね。(山崎富栄の)家に勝手に上がり込んで箪笥の引き出しを開けて回っているんですよ。(新米記者の)わたしは、そんな強引なことはできず、途方に暮れて家の軒先に一人ポツンと立っていました。すると、わたしの姿を見かねたのでしょう、家の人が『日記は父が持っています』と教えてくれました。父親は、娘の日記を肌身につけたまま玉川上水に行っていました。わたしは父親を見つけました。必死でしたよ。『日記をわたしにください。駄目なら、わたしも、ここから(上水に)飛び込みます』。すると、父親は『娘を失くし、この上、あなたのような若い坊ちゃんを死なせるわけにはいきません』と言って日記を渡してくれました。いやぁ、それから走りましたよ。誰か他の社が日記を奪いに来るのではないかいう強迫観念に駆られて(笑)」

 以上が、永井さんに聞いた話です。

「(朝日の先輩である)入江徳郎さんが書いた『泣き虫記者』のモデルは、わたしな 

のですよ」。永井さんはそうも言っていました。エライ”大”記者から、取材の”手柄話”や”武勇伝”を聞かされたことは、その後、何度もありますが、永井さんの話は、

そういうものとは趣を異にしていました。

「記者って、やはり面白そうな仕事だな」。大学生のわたしは、そう思いました。

 永井さんから聞いた話をもうひとつメモしておきます。

永井さんは編集者として、長く松本清張の担当しておられ「せいちょうさん」「せいちょうさん」と、とても親しげに呼ばれていました。

【朝日新聞小倉時代の松本清張の話】

 ある夜、記者たちが何かの宴席から職場に戻ってきました。(学歴による差別が厳然とある時代です。)松本清張は、宴会に呼ばれる身ではありません。酔って帰ってきた若い記者が、宴会の土産だとでもいうように、持っていた蜜柑を「おい」と言って松本清張にポイと投げて寄こしました。すると松本清張は、受け取ったその蜜柑をそのまま床に叩きつけたそうです。

「こんちくしょうと思ったのでしょうね。せいちょうさんの小説には、小倉時代の記者たちの名前がよく登場しますよ。もちろん、悪役で(笑)」

 

                                   了