12月16日(土)

 

 小唄というものを初めて聴きに行った。場所は曳舟。墨田区で生まれた葛飾北斎の高精細画像をスクリーンに映し出しながら小唄を演奏する催しで、その名も「北斎小唄」である。年に一度、今年が三回目で、「その壱 墨田川」「その弐 富嶽三十六景」ときて「その参 両国心中」。前の二回のテーマが風景なのに対して、今回は「心中」というストーリー性のためか、落語家の語りに文楽人形も登場して、両国を舞台にした町娘と見習い職人の切ない恋物語を描くという芝居仕立てになっている。落語はよく聞いているし、文楽もそこそこ観ているので、個人的にはあまり演出の手は加えずに女性二人が三味線と交互に唄う小唄そのものをじっくり聴いてみたくはあったけれど、楽しくはあった。

 手元の案内文によると、小唄というは、花柳界や遊芸の座敷で発達した三味線音楽で、最大の特徴は、撥を使わないこと。「爪弾き(つまびき)」と言って、指先の肉を使って繊細な音色を奏でるとのこと。曲は一分から五分と短く、今回は二十一曲が演奏された。例えば

 ◎木枯らし

  木枯らしの 吹く夜はもの思うかな 涙の露の菊重ね 重ねる夜着もひとり寝の

  更けて寝ぬ身の やるせなや

といったもの。粋ですね。

 

 終わって渋谷にとって返す。マーラー「一千人の交響曲」を聴くためだ。「二人」の後の「千人」である。プログラム解説を読むと、この交響曲の初演が「ミュンヘン博覧会1910」のメインイベントとして企画され、会場の音楽堂には、当時としては最先端の建築様式を象徴するコンクリートとガラスが用いられていたとある。面白い。コンサートホールとしては大き過ぎると言われるNHKホールだけれど、「千人」の交響曲には三千人収容のこの巨大ホールこそ似合っているのかもしれない。大編成のオーケストラと合唱、そしていっぱいの観客。同じ音曲でも小唄とは対極の世界だ。

 圧倒され、ふらつくような気分で帰り着いた家で、今度は、志ん生のCD全集の中から大津絵~冬の夜~を聴いた。大津絵は端唄に入るようだが、小唄とどう違うのかわたしにはわからない。ただ、どちらもお座敷で爪弾く三味線で唄うという共通点があり、親戚だと考えていいのではないか。

 大津絵 ~冬の夜~

 冬の夜に風が吹く  知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ  これさ女房わらじ出せ

 刺子襦袢に加治頭巾  四十八組おいおいと  お掛り衆の下知を受け

 出てゆきゃ女房はそのあとで うがい手洗に身をきよめ  今宵うちの人になァ

 怪我のないように  南無妙法蓮華経  清正公菩薩 

 ありゃりゃんりゅうの掛け声で  勇みゆく  ほんにおまえはままならぬ

 もしも生まれたこの子が男の子なら  おまえの商売させやせぬぞえ 罪じゃもの

 

  大切な人を想う心が痛いほど伝わってくる。志ん生しか唄わない、志ん生にしか

 唄えない大津絵らしい。きょうはとてもおもしろい経験をした一日だった。