6月30日。朝、鶴岡から酒田行きの各停に乗り、酒田で秋田行きの各停に乗り換えて4つ目の駅の吹浦に着きました。

 無人の改札を出ると、どしゃぶりの雨です。躊躇しましたが、きょうは”決意”をしてここに来たのです。やめるわけにはいきません。駅から5分ほどのところにある鳥海山大物忌神社に向かいました。 

 A伯父は、昭和30年の4月から11月まで、妻の暘(子)と一緒に、この吹浦の大物忌神社の近くに住んでいました。A伯父が43歳、暘(以下では、Y伯母とします)は37歳の時です。”ぱっぱのおばちゃん”。わたしはY伯母のことをそう呼んでいました。煙草を手放さず、ぱっぱぱっぱと煙を吹かすA伯父が”ぱっぱのおじちゃん”で、その妻だから”ぱっぱのおばちゃん”です。きのう、月山の記念文集の中に見つけた写真は”ぱっぱのおばちゃん”の女学校時代の写真でした。

 「月山」の後に出た「鳥海山」という本の中に「鴎」という作品があります。「鴎」は、以前に書かれた「吹浦にて」という小説を下敷きにしたものですが、大幅に加筆されています。それは、鳥海山を見たいと訪ねてきた友人が帰った後の夏の終わり、主人公と女房(つまり、A伯父とY伯母)が吹浦の海岸に流木を集めに行くところで、女房は「鴎になった!」と叫び、赤いリボンのついた麦わら帽子を飛ばしながら砂丘を駆け降りたりするのです。まるで「風立ちぬ」、それも小説ではなくアニメの方の1シーンをみるかのようです。わたしは、Y伯父の”放浪”先の尾鷲で、弥彦で、大山で、何度もY伯母と一緒しました。わたしには、あの物静かなY伯母が、そんなはしゃぎ方をするとはちょっと信じられず、その砂丘がある吹浦とはどんなところなのか一度訪ねてみたいと思っていたのです。 

 

 大物忌神社の参拝こそ何とか済ませましたが、海岸に行くには少し歩かなければなりません。ますます激しくなる雨に固かったはずのわたしの”決意”も萎え、次の列車で酒田に行き、もうひとつの用事を済ませることにしました。

 

  酒田での用事もY伯母とかかわりはあるのです。Y伯母は、酒田の旧家の出でした。昔のことで、わたしは詳しい事情を知らないのですが、一家は酒田ではなく、神戸や奈良で暮らし、A伯父とY伯母は奈良で知り合いました。わたしが生まれた時、Y伯母の母から魔除けの獅子頭をお祝いにもらったのですが、最近になって、それが酒田の郷土玩具であることを知りました。すっかり塗料がはげ落ちたその獅子頭を塗り直すことは出来ないかと思い、今回の旅行の機会に獅子頭を扱っている店に持っていって相談してみることにしていたのです。塗りの職人に見てもらって返事しますということで用事は案外簡単に済みました。山居倉庫や日和山公園など観光の主だったところはおととし酒田に来た時に見ています。なので、Y伯母と将来を約束しながら、20歳代を放浪の日々に費やしたA伯父が、いよいよ結婚すると決め、そこの境内でY伯母と”再会”したという寺を訪れたりしていると雨があがってきました。これなら吹浦の雨も止んでいるかもしれない。わたしは酒田駅に急ぎ、再び吹浦に向かいました。JRのフリー切符を買っているので、列車には何度でも乗れるのです。

 吹浦は雨でした。しかし、朝にくらべれば大したことはありません。次の酒田行きの列車は1時間後です。片道30分として行けるところまで行ってみよう。そう”決意”して、大物忌神社に向かう通りを途中で左に曲がり、月光川にかかる西浜橋を渡ると前方に西浜キャンプ場の広い松林が見えてきます。「鴎」では、ここでキリスト教信者の若者たちがサマーキャンプをしている様子が描かれています。西浜キャンプ場を左に月光川を右に見ながら川沿いの歩道を河口、つまり海に向かいます。小説の題名となった鴎の群れ飛ぶ姿など、この天気では望むべくもありません。と思っていると、雨で濁った月光川の流れの真ん中に、鴎が1羽浮かんでいるのが見えました。しかし、体が白ではなく、川の水と同じような茶色に見えるので、あるいはわたしの目の錯覚なのかも知れません。キャンプ場は有料で無断立ち入り禁止となっていましたが、キャンプ場の入り口の手前に、所有なのか借りるのか、コテージが何軒か建っていて、そのうちの1軒のテラスでは、年配の男性が夕食の準備に取り掛かっていました。

  さらに海の方に向かうと吹浦漁港に出ます。わたしは、Y伯母が鴎になり、赤いリボンのついた麦わら帽子を飛ばした砂丘がある海岸を探しに来たのです。少しあせりながら漁港の堤防の向こう側まで歩き、やっとそこに砂浜があるのを見つけました。が、そこも何かの工事が行われていて立ち入り禁止の看板が立てられていました。しかし、きょうは工事は休みのようです。

 

  

  わたしは、あきらめきれずに砂浜に入り流木などを探してみましたが、雨に濡れた砂に足を取られるばかりでした。それでも、その砂浜は、日本海に向けて砂丘と呼べるだけの広がりがあることはわかり、ずっと遠くに風力発電の風車が何基か見えました。トンビが1羽、空高く舞っています。

 腕時計を見るとだいぶ時間が過ぎていました。来た道を大急ぎで戻ります。雨は小降りのままですが、風が強くなってきました。川と隔てて歩道のすぐ脇を胸ほどの高さでコンクリートの堤防が続いています。その上にとても大きなカラスがいて、わたしの方を見ています。横を通り過ぎるのを躊躇しましたが、近づくとカラスの方が風に乗って去って行ってくれました。風がいよいよ強くなりました。月光川にかかる西浜橋のうえで、わたしが、風で骨がひっくり返った傘と格闘していると、橋の向こうから年配の女性がニコニコしながら渡ってきます。傘は差さず、頭から足元までセンスの良いレインウエアを身につけた都会的な感じがする女性で、ハスキー犬を連れています。犬の散歩に出てきたのでしょう。すれ違った時には、こんにちわと声をかけてくれました。

  A伯父が芥川賞を受賞した時、Y伯母は心の病で長く入院していました。おそらく死を強く予感していたでしょう(翌年、57歳でこの世を去りました)。もし、Y伯母が元気で、もっと長生きしていれば、芥川賞受賞後は収入も増えて、世俗的な意味での”良い暮らし””楽な暮らし”をさせてあげられたでしょう。それとも、新しい取り巻きの人たちの賑やかさの中でも、A伯父の蔭に隠れるようにして過ごしたでしょうか。

「鴎」は、芥川賞を受賞した直後に発表されていますが、「吹浦にて」からの加筆によって、「鴎」はY伯母への”詫び”であり、Y伯母に捧げた作品だと確信します。

「鴎」の最後のところでこう書かれています。

 

 「わたしたち?」  きみがもし、ぼくを一人残して、鴎になってしまったのな 

 ら、どうしてもう「わたしたち」などど言えるだろう。ながくただぼくについて、

 ここまで来たとしか思わなかった女房が、じつはそうした女房あるがために、よ

 うやくここまで来れたのを知ることの、あまりに遅かったことに及ばぬ後悔をし

 ていると、また、羽風を切って鴎の群れが来、やさしい声がするのです。

 

 

 吹浦駅のベンチに座り、さっき橋の上で行き会った女性のことを考えていました。そして、はっと気がつきました。わたしは、あの女性が吹浦でも人家の多い大物忌神社の方から犬の散歩に”やってきた”のだと思っていました。しかし、そうではない。犬の散歩を済ませて、西浜キャンプ場入口の手前にあったコテージの方に”帰っていく”ところなのだ。他に人はおらず、年恰好からみて、夕食の準備をしていた男性と夫婦なのではないか、いや、そうに違いありません。そして、Y伯母は、A伯父とあの夫婦のように暮らしたかったのではないか、そう思えてきたのです。

 月光川の中にひとりで浮かんでいた鴎は、目の錯覚などではなく、本当の鴎だったのでしょう。

 いつか夏に、友人たちと吹浦の松林の中でキャンプをするのもいいな。鴎になったぱっぱのおばちゃんも楽しんでくれそうです。

                                 (続く)