6月29日。JR鶴岡駅前を朝7時半過ぎに出るバスに乗り、注連寺を目指しました。

 注連寺と言われても知らない人がほとんどでしょう。庄内観光のパンフレットのひとつにはこう書かれています。《 森敦の小説「月山」に登場する寺として有名。鉄門海上人の即身仏が祀られている。「七五三掛桜」(シメカケザクラ)があり、毎年5月の初め頃に花を咲かせる。(後略)》。

  このブログでも何度か書きましたが、森敦はわたしの伯父です(以下、文中では”A伯父”とします)。わたしには、子供のいないA伯父にとても可愛がられたという思いがあります(そもそも、父と母を結び付けたのはA伯父であり、それがなければ、わたしは存在しないのです)。しかし、A伯父の生涯の中でも最も重要な場所であるはずの注連寺を訪ねたことは一度もありませんでした。

 何年か前の観光案内をみると、注連寺に行くには、鶴岡駅から湯殿山行きのバスに乗り、大網というところで下車すると出ていました。湯殿山は、月山、羽黒山と共に出羽三山と呼ばれています。ところが、その湯殿山行きのバスが見つかりません。庄内交通に電話すると、湯殿山行きのバス路線は利用者は少なくて廃止になったとのことです。では、どうやって行けばよいですかと訊ねると、鶴岡駅前から庄内交通のバスで朝日庁舎前(旧・朝日村役場)まで行き、そこから市が運営するコミュニティバスに乗り継いで大網まで行くようにと、バスの時刻表も含めてとても親切に教えてくれました。ただ、時刻表と言っても、大網までのバスのダイヤは、行きが朝に1本、帰りが午後に1本あるだけなのです。

 心配した雨も朝のうちに上がりました。庄内平野のみずみずしい緑を楽しみながらバスに揺られ、やがて山道に入り大網で下車すると、そこからは徒歩です。

 道は舗装されており、道路わきの所々に注連寺と小さく書かれた道案内の柱が立っているので迷うことはありません。ただひとり黙々と歩いて30分ほどで注連寺に着きました。

 

 本堂に上がる階段に「拝観休業中」と書かれた木札が置かれ、本堂の扉も閉ざされていました。人の気配はありません。ならば勝手と、境内から裏山まで歩き回り、七五三掛桜(樹齢200年のカスミザクラ)や、A伯父が、そこでひと冬を過ごした本堂脇の庫裡、小説「月山」を記念して建てられた大きな石の文学碑を見終えてしまうと、もう何も見ることもすることもなくなってしまいました。

 

 

 大網からの帰りのバスの時刻までは5時間近くあります。どうやって過ごせばよいのか困りました。じっとしていても仕方ない。歩くことで時間を潰すしかないだろう。そう思って、本堂の階から腰をあげると、誰もいないと思っていた境内で草刈りをしている男の人がいることに気がつきました。注連寺の住職の佐藤弘明さんでした。佐藤住職は、鶴岡の市街地の方に住んでいて、注連寺には、毎日、通っているのです。そう言えば、朝、コミュニティバスの中で、運転してくれた職員が「住職は、また(寺に)来てないんじゃないかな」と言っていたことを思い出しました。聞くと、拝観を”休業”しているのは新型コロナウイルスのためだとのことです。

 わたしが、注連寺に来た理由を話すと、住職は、それならばと草刈り作業を途中でやめて本堂や庫裡の中を案内してくれました。

 小説「月山」では、主人公(つまりA伯父)は庫裡の2階で、祈禱簿の紙を糊で貼り合わせてつくった蚊帳を吊り、中で冬を過します。その場所がここです。住職が広い部屋の隅を指して教えてくれました。庫裡は、現在はガラスのサッシ窓になっていますが、72年前はガラス窓はもちろん天井板もなく、棟木や梁はむき出しで雪が吹き込むままになっていました。冬には庫裡の2階の窓を覆うくらいの雪になるそうです。

 初夏の緑したたる季節でさえ、たった1時間ほどを過ごしただけで、わたしなどは、もう寂しさに耐えられなくなっています。当時、A伯父は39歳の男盛り。こんなところでよく独りで過ごせたなぁ。わたしがそう言うと、住職は、いまでも、森先生に縁があり、ここで1年暮らしたいと言ってくる人がいますよ、でも、よく聞くと縁などないのです、と言って笑いました。

 注連寺の前にあり、小説で重要な役割を果たす七五三掛の集落は、この地域で起きた大規模な地すべりのあと、集落ごと移転したということで、今はもうありません。注連寺がひとりポツンと山の中にあるように思えたのはそのためなのです。地すべりを引き起こす山の水を抜くなどして管理するためなのでしょう、県が掘った「井戸」があちらこちらにあるのに気がつきました。

 

 注連寺には、以前は、東北の太平洋側の県の人たちが湯殿山詣りの講を組織して毎年団体で参詣に訪れていたそうです。東日本大震災で、その人たちが住み慣れた土地を離れていったために講が組織できなくなり、その方面からの参詣者は途絶えてしまったそうです。小説「月山」の芥川賞受賞をきっかけにブームにもなった注連寺ですが、これが現状のようです。

 注連寺には鉄門海上人の即身仏が祀られています。庄内地方には、6体の即身仏が5つの寺に安置、祀られています。即身仏を訪ねて5つの寺をめぐることを”巡礼の旅”と称して観光コース化する動きがあり、進んで受け入れる寺もあるようですが、佐藤住職自身の気持ちは”積極的”とまではいっていないようです。わたしは怖がりです。ミイラって、そんなに観たいものですかねぇと、仏罰を受けそうなことを言ってしまって、自分でハッとしましたが、住職は別に表情を変えることもなく聞いていました。

 わたしの母は鶴岡で育ちましたが、注連寺を知りません。その母が、注連寺には一度行ってみたいと言っています。別れ際に佐藤住職にそう話すと、母が来る時は前もって連絡してくださいと言ってくれました。

 

 帰りのバスを待たずに、大網から歩いて県道を下り、天を仰ぐ高さに架かる山形自動車道の橋の下をくぐって、なおしばらく歩くと国道112号線に出ました。ここまで来れば車も走っています。国道は梵字川に沿うように通っていて、帰り道の方向に歩いていくと、行きのバスの中からは気がつきませんでしたが、月山ワイン山ぶどう研究所という施設がありました。周囲で休憩できるようになっています。さすがに歩き疲れました。バス停もあるので、ここで大網方面から戻ってくるコミュニティバスに乗ることにして、ワインを試飲し、山ぶどうのサイダーやシャーベットを飲んだり食べたりしていると、危うくバスをやり過ごしてしまいそうになり、慌てて手を振って止めました。

 

 

 鶴岡に阿部久書店という明治20年創業という古書店があります。夕方、市街地に戻った庄内交通のバスを途中下車して覗いてみました。注連寺にある「月山」の記念碑建立と同時に記念文集も刊行されていたらしく、その1冊を見つけました。

 文集には、A伯父と親交のあった人ー著名人から、わたしの母方の祖母のような人までーの寄稿や談話が掲載されています。写真もありました。小説「月山」に登場する三人のじさまー”寺のじさま”  ”源助のじさま”  ”もくえん(杢右ェ門)”ーの写真は初めて見る写真です。

 わたしは、500円を払ってその文集を買い、夕食を済ませると、鶴岡駅前のホテルに帰って読むともなくページをめくりました。中に今まで見た記憶がない写真がありました。

それは若い女性の顔写真で、その写真から、あしたは何としても鳥海山の麓にある吹浦という町に行かなければならない、そう”決意”したのです。                      

                                 (続く)