4月半ばの土曜日。実家に帰っていたわたしは、以前から考えていた”或る計画”を実行しようと思い立ち、計画のスタート地点となる阪急電車の芦屋川駅に降りた。

 

 ”或る計画”というのは、谷崎潤一郎の小説『細雪』ゆかりの場所を歩いてみるという、だだそれだけのもので、大それた話ではないのだが、それだけに却っていつでも実行できる思って先延ばしにしていた。

 『細雪』は、昭和11年から16年までのことを書いた小説だが、その最初の方に阪急の芦屋川駅(駅ではなく停留所と書かれているが)が出てくる。

 

            (中公文庫『細雪』より)

 三人の姉妹が、阪急御影に住む知人宅で行われるレオ・シロタ(高名なピアニストで、ウクライナ生まれのユダヤ人)の演奏会に誘われて、揃って出かけて行く場面だ。

 

        (阪急芦屋川駅のホームから南の海の方角を臨む)

 

『細雪』のその場面から、阪急芦屋川駅を今回の散策の起点に決めたのだが、これから歩くコースを分かりやすく示すための地図を用意する。

 

 

      芦屋川沿いを真っ直ぐ海の方(地図では下)に向かってスタート。

 

 

 芦屋を含む阪神間の最大の特長は、大阪と神戸の間を、阪急電車、JR、阪神電車という3本の鉄道が並んで走っていることだ。最も山側を通るのが阪急、最も海側が阪神、真ん中がJRである。なので、阪急から南に歩くと、まずJRと出会う。

 


 

 芦屋川のこの辺りは、川床が周辺の土地よりも高い天井川なっており、JRの線路は川床の下を通っている。

 

             黒塀を巡らした芦屋の大邸宅。

 

国道2号線(阪神国道)にかかる業平橋の手前から川岸に降りてみる。

 

左にカソリック芦屋教会。改修中のようだ。

 

      阪神芦屋駅の下を通り抜ける。

 

          国道43号線の下をくぐると、もう海は近い。

 

 

やっと海まで来た!!

 

 堤防から”陸”に上がって最初の目的地・谷崎潤一郎記念館を目指す。

 

  

 

 谷崎潤一郎は、日本橋生れの生粋の東京人だが、大正12年(1923)の関東大震災を逃れて芦屋に住む友人を訪ねて来る。谷崎37歳。ほんの一時の避難のつもりのはずだったのが、昭和19年(1944)まで20年にわたって阪神間で過ごすことになる。

 

(芦屋市谷崎潤一郎記念館のパンフより)

芦屋にたどり着いた時の谷崎。ヘルメット帽に水筒、リュックサック。

今でもそのまま通用するようなファッションだ。

 

 この「阪神間」時代に『痴人の愛』『蓼食う虫』『春琴抄』などを次々と発表し、文豪としての地位を築いていく。私生活では、41歳の時、大阪船場の豪商根津商店の御寮人で、一児の母である松子(当時24歳)との運命的な出会いがあり、谷崎自身の離婚、再婚と離婚を経て、根津の家を出た松子と49歳で結婚している。今ならダブル不倫だと大騒ぎされそうな話だ。まして刑法の姦通罪が存在した時代である。それを押し通すことが出来たのは文豪・谷崎なればこそなのだろう。”引っ越し魔”の谷崎は、阪神間で暮らした20年間で13回も引っ越しをしているが、転居には、創作活動への刺激を求めたという以外に、松子との”恋”を世間から庇うためもあっただろう。

 

(同上パンフより)

 

 記念館での展示の中で、これは面白いなと感じたのは、谷崎が、当時の「大衆文学」の勃興を好意的に受け止めていたということを示す資料があったことだ。谷崎自身、『乱菊物語』というエンターテインメント性豊かな空想時代小説を書いているそうだ。文学に限らず、音楽でも演劇でも《芸術と大衆》《芸術性と娯楽性》というのは興味深いテーマである。以前から、写真で見る谷崎の風貌には、文学者という以外に、どこかの大店の旦那というような風格があると感じていたのだが、若い頃のハイカラ好きといい、《大衆》や《流行》に対する”商人的”な時代感覚も鋭かったのではないだろうか。

 

 

 谷崎潤一郎記念館を終えて、阪神で芦屋駅から神戸方向に3つ目の魚崎に向かう。

 

  

  魚崎郷は灘五郷のひとつ

 酒造会社の記念館の案内には心ひかれたが、きょうは目的が違う。駅のすぐ側を流れる住吉川沿いを、今度は、芦屋川の時とは逆、つまり山に向かって歩いていく。

 

 

 次の目的地である「倚松庵(いしょうあん)」には、さほど歩かないで到着した。  倚松庵は、阪神間で引っ越しを繰り返した谷崎が、7年間と最も長く住んだ家であり、『源氏物語』の現代語訳(いわゆる”谷崎源氏”)や『細雪』に取り組んだ家である。もし、この家がなければ小説『細雪』は書かれなかったと言ってもよいだろう。

 

 

 倚松庵とは、「松に寄りかかっている住まい」という意味で、「松」とは、松子夫人のことだ。もとはもっと海に近い方にあったが、住吉川沿いに新交通システム・六甲ライナーがつくられることになり、神戸市の手でそっくり今の場所に移築されたのだそうだ。ついでのことながら、倚松庵と住吉川を隔てた反対側(少し山側だが)に、わたしの母校であるN中・高校がある。住吉川沿いの白い瀟洒なマンションには、宝塚にあるカソリック系のS女子学院に通う女学生が住んでいた。母親がさばけた人で、われわれが行くと迎え入れて、少々の酒くらいなら大目に見てくれた。大事なひとり娘に悪い虫がつかないように、むしろ悪い虫を残らず取り込んでおいた方が得策だと考えたのかも知れない。娘さんの名前が「みどり」だったので、ランボオの詩『みどり亭で』に引っかけて「あの家は、ぼくらの『みどり亭』やな」と言って笑いあった。ぼくらは、放浪と反逆に憧れて、みんながランボオになったつもりでいたのだから、いい気なものである。その頃、谷崎を読んでいた奴など一人もいなかった。

 

 

倚松庵は、入場料は無料だが、開館日は土曜・日曜だけなので注意が必要だ。サッと見るだけで済ますつもりだったが、話をしてくれるというので、聞いていくことにした。講師は、武庫川女子大学名誉教授の、たつみ都志さん。”生徒”は、千葉県から来たという夫婦、住宅に関心があるという女性、それにわたしの4人。教室は倚松庵の応接間(倚松庵は和洋折衷で応接間と食堂が洋間)である。たつみさんは、松子夫人と谷崎の別れた二人目の妻の写真を見せて「男の人が見て、どっちの方が美人やと思いますか?」「前の奥さんは、女優の、えーと、なんて云う名前やったかな、ほら、科捜研の女に出ているー」「沢口靖子ですか」「あー、そうそう」。そんな話をまくらにして阪神間時代の谷崎のこと、松子のことをざっくばらんに語ってくれた。   『細雪』では、家の場所こそ芦屋に設定しているが、昭和11年から16年まで、倚松庵での暮らしの中で実際に起きたことをほとんどそのとおりに描いている。ただ、わたしには、実際の倚松庵は、小説で思い描いていたよりも狭く感じられた。すると、たつみさんが、『細雪』の家は、間取りは倚松庵とまったく同じだけれど、四畳半の部屋は六畳に、六畳の部屋は八畳にというように、ひと回り広く描かれているのだと教えてくれた。谷崎は、倚松庵をとても気に入っていたが、さらに理想の家にするために、工夫したのだろう。

 

 

「こいさん、頼むわ。ー」 読者を引きずり込むようなセリフで始まる『細雪』冒頭に出てくる2階の和室から1階の台所や風呂場まで丹念に案内してもらい、小説の中での光景が目の前に広がるように感じられた。気がつくと2時間以上が過ぎていた。

 

(倚松庵配布の小冊子より)

 

『細雪』は、昭和18年、軍部からの圧力によって雑誌『中央公論』への連載が禁止された。戦時下である。事情は容易に想像がつく。むしろ、軍部の意向や世情に全く”忖度”することなく、この豪奢な小説を世に問おうとした”揺るぎなさ”にこそ驚かされる。谷崎は、発禁処分を受けた後も『細雪』を書き続け、その原稿を大切に守り抜いた。戦争は終わった。出版された『細雪』はベストセラーになる。人々は、敗戦の焼け野原に佇んで『細雪』を読んだはずだ。それは、”新生日本”などという言葉とは真逆のもの、戦前まで確かにそこに存在した日本のこまやかな家庭生活の記憶を読者に蘇らせたであろう。そして、それは、ブルジョワな暮らしが描かれていることへの非難や階級意識を、たとえひとときであるにせよ忘れさせるほどの深い愛惜を伴ったものだったのではないだろうか。細かに降る雪が、掌の上で溶けて消えていくのを見ているように。

 

  倚松庵を出て、住吉川沿いを山に向かって歩く

                                    

芦屋川よりも急な感じ

土石流や鉄砲水に注意

住吉川も天井川。川の下はJRのトンネル

『細雪』の石碑発見!昭和13年の阪神大水害で上流から流れてきた石だろうか?

阪急電車の鉄橋。ここで道を左に折れて線路沿いを神戸方向に向かう。

長い石塀は、朝日新聞の社主だった村山家の邸宅

村山邸の隣が弓弦羽(ゆずるは)神社。その名前からフィギュアスケートの羽生結弦ファンの聖地になっているそうだ。高校時代、『細雪』の中に出てくるK女子学園に通う女の子と交際していたことがある。その女の子の家は、弓弦羽神社のすぐ側にあった。なんとなく懐かしい気持ちがして探してみたけれど、家は、もうなかった。

 

 

 きょうの散策コースの最終地点に到着。『最初に書いた三姉妹がレオ・シロタのピアノを聴きに行く友人宅があるのがここ阪急御影だ。ここから神戸に出るつもりだったが、倚松庵で思いのほか長い時間を過ごした。母には夕方までには帰ると伝えてもいたので、大阪梅田行きの電車に乗る。御影の次が岡本、2つ目の駅が芦屋川。わたしの降りる駅は、さらにそこから5つ行かなければならない。その分、『細雪』の世界からは遠くなる。それにしても、ぼくはなぜ『細雪』が好きなのだろう。今回の散策でもその答えを見つけることはできなかった。ただ、きょうはよく歩いた。その疲れだけが心地よく残っていた。

 

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