スイスの小領主からオーストリア王朝国王の
家系へ、そして700年もの間、欧州の権力の座に
あったハプスブルグ家。
写真は、1600年代に、お家の頂点にいた
写真は、1600年代に、お家の頂点にいた
ルドルフ2世の王冠と王杓、王珠。
ルドルフ2世は、戦争をして領土を広めるなど
ルドルフ2世は、戦争をして領土を広めるなど
国力を上げる活動よりも芸術や錬金術の研究など
の学芸に力をいれた国王だったそう。
写真のおでこの部分のルビーは、どのぐらいの
写真のおでこの部分のルビーは、どのぐらいの
大きさなのだろう。
当時の王位の力を感じずにはおれない王冠。
デザインは、ローマ法王のポープがつける
デザインは、ローマ法王のポープがつける
帽子の形に似ているが、厳格なカトリック教徒
であったようで、それが関係しているのか?
(ウィキペディアより引用ここから)
政治的には無能だったルドルフ2世であるが、教養に富んでいたことから文化人としては優れていた。ルドルフ2世が芸術や学問を保護した結果、その下にはルーラント・サーフェリー、バルトロメウス・スプランヘル、ジュゼッペ・アルチンボルド、ハンス・フォン・アーヘン、アドリアーン・ デ・フリースといった欧州における多数の芸術家が集まり、帝国首都のプラハは文化的に大いなる繁栄を遂げたのである。ルドルフ2世自身は、特に錬金術に大いなる興味を示しており、実際に多くの錬金術師のパトロンとなっていた。また、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、植物学者のシャルル・ド・レクリューズなどもルドルフ2世のもとに出入りしていた。
(引用終わり)
ひょっとしたらルドルフ2世は、
国王になるよりも学者さんとして生きたかった
のかも知れない。
(ウィキペディアより引用ここから)
政治的には無能だったルドルフ2世であるが、教養に富んでいたことから文化人としては優れていた。ルドルフ2世が芸術や学問を保護した結果、その下にはルーラント・サーフェリー、バルトロメウス・スプランヘル、ジュゼッペ・アルチンボルド、ハンス・フォン・アーヘン、アドリアーン・ デ・フリースといった欧州における多数の芸術家が集まり、帝国首都のプラハは文化的に大いなる繁栄を遂げたのである。ルドルフ2世自身は、特に錬金術に大いなる興味を示しており、実際に多くの錬金術師のパトロンとなっていた。また、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、植物学者のシャルル・ド・レクリューズなどもルドルフ2世のもとに出入りしていた。
(引用終わり)
ひょっとしたらルドルフ2世は、
国王になるよりも学者さんとして生きたかった
のかも知れない。