| 赤い靴(くつ) はいてた 女の子 |
| 異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった | |
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って | |
| 異人さんに つれられて 行っちゃった | |
今では 青い目に なっちゃって | |
| 異人さんの お国に いるんだろう | |
赤い靴 見るたび 考える | |
異人さんに 逢(あ)うたび 考える
私が小さいころに小学校の音楽の授業で習った 歌ですが、今になって歌詞を見てみると、 生き別れた女の子を思い出した歌であることが 分かります。 どんな、ストーリーか気になったのっで Wikipediaで見てみると… 引用ここから> 歌詞は、実話を題材にして書かれたという話が定説化していた。 静岡県清水市有渡郡不二見村(現在の静岡市清水区宮加三)出身の岩崎かよの娘・佐野きみ(1902年(明治35年)7月15日 - 1911年(明治44年)9月15日)がその赤い靴を履いていた少女のモデルとされた。その「定説」は次のとおりである。 岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り、鈴木志郎と結婚する。きみが満3歳の時、鈴木夫妻は、社会主義運動の一環として当時注目されていた北海道の平民農場へ入植する。しかし、開拓生活の厳しさもあり、かよは義父・佐野安吉の仲介により、娘・きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにした。 やがてヒュエット夫妻は本国に帰る事になるが、その時きみは結核に冒されており、アメリカに連れて行く事が出来ず、そのまま東京・麻布の鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けられてしまう。きみは孤児院で母親に会うこともできず、9歳で亡くなったという。母親のかよは、きみはヒュエット夫妻と一緒にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、きみが東京の孤児院で結核で亡くなったことは知らされないまま、一生を過ごした。 1903年(明治36年)に社会主義詩人として出発していた野口雨情は、その後、1907年(明治40年)、札幌市の新聞社に勤めていたときに、同僚の鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、「かよの娘のきみが宣教師に連れられて渡米した」という話をかよから聞かされた。乳飲み子の長女のぶ(きみには異父妹)を抱えて、鈴木夫妻は開拓生活に挫折していたのだ。じつはこの時点では、きみは鳥居坂教会の孤児院にいたのだが、かよはそのことを知らない。その後、1921年(大正10年)に、この話を題材にして『赤い靴』が野口雨情によって作詞され、1922年(大正11年)に本居長世作曲で童謡になった。 <引用ここまで と、日本がまだまだ貧しかったころの、また インターネットもスマホもなかったころの少し 寂しい話ですが、「赤い靴」が印象深いので この童謡が生まれたはずです。 「赤い~」でスタートする歌や童謡が多いのも 記憶に残りやすいからでしょう。 それもそのはず、赤色は人が見ることのできる 光線では、一番波長が長く、曲がりにくいため 人の眼に届きやすいからです。 赤信号が、赤い理由は、人が一番、短時間で 認知するから。 写真は、モリスナヤン鉱山から産出した ピンキッシュルビー。
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