こんばんは😃🌃

森瀬真理です


昨日はサムの最初の月命日でした。

1ヶ月って早い。


その間、何度かsns上で目にしたペットロスという言葉。


たくさんの人が悲しくてつらい思いをしている。


私はと言うと、やっぱり落ちない。

頭の片隅に『ただ薄情なだけなのかも?』ってのも多少あったりして、


私は私に聞いてみた


『別にアニマルコミュニケーターだから死んでからも存在ちゃんと認識できるし、会話も出来るっていう、そういう能力があるからとかでは無い』


ん?違うの?


『ペットは飼い主の鏡ってよく言うでしょ。あれよ。』


私の心身のコンディションにことごとくシンクロしてきた我が家の愛犬たち。

本当に常に共鳴してきた。


そして、

『サムが(マリンもお父さんも)生きていようが死んでいようが私の愛する気持ちは変わらない。変わってない。むしろ強くなってる。』


ここからちょっと変な話しです。

通常この流れならサムの為に元気でいないとって話しになるのかと思いきや


完全に私の都合だけにフォーカスすると

サムのためとかマリンのためとかじゃなくて


私のため。

私の内側から出るモノにそのままなだけ。


肉体が無くなっても想いは変わらないから

だから私は心身共に元気なのです。


私が元気だとみんなも元気だから。

私がそうしたいから。


本当は悲しいけどいつまでもくよくよしてたらサムが心配するから、ではなくて

ただ私がサムを愛しているから。

サムを尊敬してるから。サムはパーフェクトライフだった。それは私のおかげではなくサムが成した事だから。

悲しみの感情よりも愛する感情が上回ってるから。


つたない活字でニュアンス伝わってますかね?


視点の違いですね。

私にフォーカスしたら私の潜在意識はそういうのです。


それもそれで勝手な話よねって思うけどね。

結局は薄情な自己満足って解釈もありっちゃありな感もしなくもないけど。


自分の次元の現在地や意識の広大さやパワーの強さを俯瞰で見ると、そうなるよねぇってなる。


そしてサムの前にはずっと黄色いバラがある。

お花屋さんによっては黄色いバラが置いてない事もあって、何件か回ったりして


黄色いバラの花言葉って、たぶん『敬愛』

だからサムの前にはずっと黄色いバラがある。


ペットロスで悲しんでる人がいるなら、フォーカスポイントを変えてみたら、きっと悲しみに隠れているもっと大きな愛のエネルギーがあるんだと思うのです。


悲しみが深いのはそれだけ愛していたから

大切な存在だったからこその喪失感という解釈もあると思っていた。サムが死ぬまでは。


でも、現時点での私の状態からすると

それは自分の中の本来の自分に気が付けていないからだったと。この1ヶ月で感じています。


お読みくださりありがとうございます。