追悼瀬戸内寂聴さん | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

美術や動物、演劇、旅、ガーデンが好きです

瀬戸内さん、ありがとうございました。

立派な生涯でした。

 

 

 

 

 

 

ダウン

作家として、尼僧として時代を駆け抜けた瀬戸内寂聴さんが9日、現世に別れを告げた。結婚、出産、駆け落ち、そして出家。自身の生き方と重ね合わせた多くの小説、エッセーを発表する傍ら、社会的な運動にも積極的にかかわった。合格

 

波瀾(はらん)万丈の人生は、小説に人間的な血肉を通わせ、多くの読者の共感を得た。

 瀬戸内さんが作家の地位を確立したのは、先駆的な女性文人たちの伝記小説だった。日本のフェミニズム文学の先駆者で、女の自由な愛のかたちを求めた田村俊子。漫画家の夫、岡本一平の寛容な愛を受けながら、別の男とも同居し、才能を開花させた岡本かの子。「美は乱調にあり」では、伊藤野枝と大杉栄を取り巻く複雑な愛と革命を描いた。合格

 

共通するのは、日本女性に求められた道徳や因習にとらわれず、自我に目覚め、男を強く愛しながら男に依存せず、情熱的に生き抜いた女性であり、それは同時に瀬戸内さん自身でもあった。合格

 

 ベストセラー作家として波に乗っていた時期の突然の得度は、世間を仰天させた。得度式の5日後、瀬戸内さんは本紙に手記「念願成就」を寄せている。てい髪の瞬間を「いささかの不安も危惧もなかった」と振り返り、「私の生きて来た50年の歳月のすべてに出家の動機の仏縁は御仏(みほとけ)の手でひそかに結び付けられていたのであろう。私の今後の生き方でしか、それは人に示すことが出来(でき)ないのではないだろうか」とつづった。そして瀬戸内さんは、「今後の生き方」で見事に出家の意味を示した。

 

 功績の一つが「源氏物語」現代語訳の完成だ。13歳で与謝野晶子訳に出会って以来、「源氏」は座右の書だった。瀬戸内さんは、光源氏と関係を持った女性の多くが出家していることに着目!!

 

さらに、宮中の権力争いを現代の出世競争などに置き換え、自らの出家体験を踏まえて現代社会にうまく照らし合わせた。その作業、足かけ約6年。「今までの現代語訳の中で最も分かりやすい」と大ベストセラーになった。

 

 

 また、忘れてならないのが、瀬戸内さんの社会活動だ。「徳島ラジオ商殺し事件」では、容疑者とされた被害者の妻、故・冨士茂子さんを支援。合格

 

故・市川房枝さんらと支援組織を結成し、死後再審、無罪となるまで26年間、冨士さんとその親族を励まし続けた。事件現場と実家がすぐ近くという同郷の縁だけでなく、冨士さんの犯行動機を「内縁の夫の女性関係に対する嫉妬心と将来への不安」と決めつけた検察への不信!!が、瀬戸内さんを立ち上がらせた。

 

連合赤軍事件の永田洋子元死刑囚(故人)との書簡交流を通して、死刑廃止論の立場を唱えた。!!

 

著書には「なぜなら、自分もまた表だって罪をおかさないだけで、心は罪でみちみちているからだ」(「罪をも許す」)と書かれている。出家して悟った心の表れだった。

 2011年に東日本大震災が起こると、被災地の岩手県二戸市を訪れ、雨の中集まった約3000人を前に法話を行った。時に89歳。合格

 

「私たちは必ずいつか一人になる。他人に流されず自分の信念に沿ってしたいことをして生きていれば人生が自然に開ける」と説いた。

 さらに、福島第1原発事故を機に脱原発運動に取り組み、高齢の身を押して集会に参加した。合格

 

13年に成立した特定秘密保護法を巡っても、反対を表明。押しも押されもせぬ大家になり、文化勲章を受けても、国家に対して言うべきことは言う姿勢を貫いた。合格

 

 

小説やエッセーのみならず、瀬戸内さんの語り口に癒やされる人も多かった。寂庵(じゃくあん)と天台寺で開かれた法話には毎回、全国各地から会場に入りきれないほどの人が訪れ、笑い、涙した。寂庵での法話は20年1月が最後となった。

 

 

 「人間は愛に始まり、愛に終わる。でも、人間は生まれながらにして孤独なのです」。そう言って全国各地の講演、法話で語り続けた。一遍上人の「されば人と共に住するも独(ひとり)なり」という言葉を愛し、「一遍上人のように一人歩き続け、野に果てる人生を送りたい」と願っていた瀬戸内さん。人間の愛と孤独を平易に説いた「寂聴節」は、これからも記憶されるだろう。