鹿児島ライオンの噴水とレトロな山形屋デパートに驚喜www | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

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鹿児島空港から鹿児島中央駅につく直前、バスから観たこのライオンの噴水に驚喜した私(^_^)

 

隣の薩摩の立役者の銅像はあんまり興味がない。すいません。

 

聞いてもどこにあるか分からない人ばかりで、最終日に仕方なく山形屋デパートからタクシーに乗りました。

 

タクシードライバーも観光バスの運転手で、(コロナで仕方なく)なかなか分かりませんでした。

 

デモとても親切な方でした。ありがとうございました!

 

こんな噴水に興味持つ人レアなんでしょうね。

 

 

 

駅でこのかっこいいレトロなデパートの宣伝観て行きたいなとラブ

鹿児島・宮崎の旅最終日、デパートでたら急に雨が降ってきました。

後は空港へ行くだけなのでラッキーでした。

9月のことです。

 

 

 

山形屋の創業は1751年宝暦元年)[1]、百貨店化は明治時代中頃、近代的なデパート建築(清水組による施工)となったのは大正時代初期と古く、地方百貨店の先駆け的存在であり、神戸以西における百貨店第1号である。

商業面積は約33,000m2、年間売上高は約500億円にも上り、地方百貨店としてはトップクラスの収益力を誇っている。

 

塔がたまりません。

 

良いですねえ、このエレベータで屋上へ。

 

電車通りに面した1号館は1999年(平成11年)に昭和初期のルネサンス調の外観に復元され、夜間には美しくライトアップされる。建物内部も曲線をもつ柱や梁などが復元されており、1号館1階は高い天井とシャンデリア、柱には大理石の化粧貼りが施されている。

今では珍しくなった大食堂が健在である。山形屋子会社のベルグ(旧山形屋食堂)が1943年(昭和18年)7月に運営を開始し、1972年(昭和47年)から現在の7階で営業している。他の百貨店では複数の専門店から構成されるレストラン街に移行したところが多いが、山形屋では大食堂が盛況を維持し、視察に来た他店の関係者が驚くという。名物は1958年(昭和33年)から出している「焼きそば」で、揚げ麺に野菜たっぷりのあんかけをかけたものである。安価に設定されているものの、年間13万食が提供され、このメニューだけで大食堂の売り上げの半分を占める[3]
屋上には遊園地の「山形屋ファミリーランド」[4]が2015年(平成27年)1月8日まで存在した。
また、無料給茶機や個別空調を完備した休憩室も設けられている。

 

創業は1751年(宝暦元年)。創業者近江商人の血を受け継ぐ現在の山形県庄内地方北前船商人で、薩摩藩主の許可を得て開業した鹿児島城下唯一の呉服商が現在の山形屋の前身といわれる(1号館の壁面に山形屋呉服店のレリーフが掲げられている)。

大正時代には、1912年(大正元年)に山形屋に先んじて「明治屋呉服店」というデパート風の商店が近くに開業した。ルネサンス風の3階建ての壮観な建物を持ち、店員150人、年間売上200万円に上るなど、鹿児島随一の店舗とされていた。しかしこの頃、鹿児島市電(当時は民営の鹿児島電気軌道)の建設計画が進んでいた。その路線計画は現行の電車通りより海側の、当時の繁華街であった広馬場を通るものであった。広馬場周辺の商店主は、電車を通すために必要な道路拡幅で、店舗用地を削られることを嫌って反対し、計画は難航していた。そこで当時の山形屋の当主であった岩元信兵衛は早速電車会社に対して用地提供を申し出て、そのために必要な店舗建物の撤去費用も自分で負担するとした。電車会社としても広馬場周辺の商店主としてもこれに異論はなく、こうして現在の電車通りに路面電車が通ることになった[8]

折から山形屋は本格的な百貨店へと新築工事を進めているところであったが、本来の計画では西側に正面を向けることになっていた。しかし東側の通りが電車通りとなったことから設計が変更され、電車通りに正面を向けて華やかなショーウィンドウを備えた建物となった。路面電車の運行によって人の流れが変わり、従来の繁華街広馬場から山形屋のある金生町周辺がメインストリートへと変貌した。この流れに抗することができず、明治屋も1931年昭和6年)に電車通り沿いの高見馬場に移転することになったが、結局第二次世界大戦時の鹿児島大空襲により焼失してそのまま閉店した[8]

また、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌時には、破格売出を行ったほか、他の商店等において支払が遅延する中、掻き集めた売上金を鹿児島から大阪まで列車輸送し、問屋に通常決済を行ったことなどにより、鹿児島県内の顧客のみならず全国の問屋から信用を勝ち取った。

こうしたことから、地域における商品力、ブランド力は昔から格段に強く、鹿児島市の中心繁華街である天文館地区においてガリバー的存在として君臨している。そのため、鹿児島市の商圏規模を考えれば共存できるはずの丸屋デパート(後の鹿児島三越三越鹿児島店、現在のマルヤガーデンズ)や高島屋デパート(現在のTAKAPLA(当初は高島屋プラザ)で大阪に本社を置く同名の百貨店とは無関係)といった競合店は苦戦を強いられてきた。

 

 

 

 

 

 

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