大見小藤太成家はこの地の豪族伊東氏の一族、工藤祐経の家臣であった。
そして、伊東祐親と工藤祐経の領地争いのため、その主命に殉じた武将である。
墓は県道12号線(修善寺・伊東線)修善寺方面方から伊東に向かい、冷川峠に登る前の柳瀬地区の道路脇にあります。伊豆市の文化財に指定されています。
狩野家次の長男祐家は伊東を統治、幼い息子の祐親を残して他界。そこで家次は次男の祐次を伊東に送り祐親の後見人とした。祐親は初め家次から譲られた河津を領したが、叔父の祐次と伊東の庄を争った。祐次の死後、その子工藤祐経は京の出仕から帰り、伊東の所領を取り返そうとしたが、どうすることもできず祐親を殺そうと考え、大見小藤太とその一族、八幡三郎に計った。
その後祐親が遠笠山に豪族たちを招いて狩りを催すという機会があり、小藤太と三郎はその帰りを待ち、赤沢のシイの木の上から遠矢を射かけた。しかし、矢はその子河津三郎祐康の命を奪って、祐親には手傷を負わせたにすぎなかった。伊東に帰った祐親は直ちに次男祐清に兵を与え、二人を討ち取るように命じた。八幡三郎は覚悟の腹を切り、小藤太成家も激しく迎え撃ったが馬場沢河原で首をはねられた。安元三年
(1177)三月のことである。この事件が発端となった曾我兄弟の富士の仇討は、
日本三大仇討の一つとして有名である。(「伊豆市の文化財」より)