中国に来てから痛感するのは、格差である。
わたしの住む街でも、高級外車に乗っている人、スクーターに4人乗りする人。など
生活環境、教育環境など様々な場面で、それを見ることができる。

先日、北京に滞在していた時の事を話そう。
中等教育の日本語教師が集まる研修会に参加するため、
普段はあまり乗ることない、地下鉄10号線に乗った。

混み合った車内で、外国人の乗客が、不審な動きをしていた。
何が起きたのかと、様子をうかがってみると、
足元に小学校低学年ぐらいの男の子がしがみついていた。
はじめは、かまってくれと駄々をこねているのかと思った。
しかし、よく見ると彼の手には1元札が握りしめられていた。
その時、ようやくわたしは彼が「物乞い」をしていることに気が付いたのであった。

その外国人の乗客が駄目だと分かると、他の女性の足元へ行って、同じことをする。
時には頭を床にすりつけ、土下座のような姿勢で懇願するのであった。

中国では(海外の多くの場所でも同じかもしれない)地下鉄や駅など人の集まるところで
物乞いをする人をよく見かける。
今まで、目が見えない人、耳が聞こえない人などは何度も見かけたことがあった。
しかし、こんな小さな子どもが物乞いをしているところを見たのは初めてだった。

彼らのような人に遭遇した時、わたしはいつも対応に困ってしまう。
そして、巨匠ガウディの言葉を思い出す。
サグラダ・ファミリア建設時、資金難で、工事が中断した際、
自らも資金調達の為、寄付金を出してくれる人を求め、
色々な人の所へ足を運んだというエピソードがあるが、
その時、寄付という言葉について、ガウディは「自分の生活が困るギリギリまでしなければ、本当の寄付ではない」というような内容の事を言ったそうだ。
(正しい文言は思い出せないが、このような主旨の事だったと思う)

その場しのぎに、小銭を渡して、自分は他人のために何かやってあげたという達成感を得る。
これは、やはり偽善か。
ここで、お金を渡しても、根本的な解決にはならないが、このお金で彼らの生活の上で助かることがある。
どちらが正しいのか、この行為について、自分なりの答えはまだ出せていない。
いつも、そんなことを考えながら、目をそむけ、じっと彼らが通り過ぎるのを待つ。

そうこうしているうちに、少年はわたしたちのところにもやってきた。
そして、足にしがみつき、お金をくれと懇願するのだった。
結局、お金は渡さなかった。
それが正しかったのか、今になって考えても分からない。

子どもにお金を渡したところで、大人に搾取されてしまうだろうし、
もらうお金だけで、なんとか生きていけるのだったら、
そういう子どもたちは、いつになっても同じ生活を続けてしまうだろう。
本当に彼らの為になることってなんだろう。
思考は同じところをずっとぐるぐる回っている。

今回、ショックだったのは、彼らにとってはそれが日常になってしまっているということ。
彼らは、そうやって生きていく生活しか知らないのだ。
それが本当にショックだった。

先輩隊員の話では、10号線はこういう子どもたちが特に多い路線らしい。
子どもたちに罪はないけれど、
どこで生まれたかで、だいたい運命が決まってしまっている。
本当に不合理だと思った。

こんなに豊かに見える国で、
でも、ちょっと目を凝らせば、こんなことがたくさん見えてくる。

平和ボケしているといえばそれが正しいかもしれないが、
ずしりと重いものを受けっとった日であった。