2千円札を一枚なぜか持っておりまして
じっと見いたわけです。
なぜ表が首里城の守礼門で、裏は紫式部の源氏物語なのだろうか?
ネットで調べても見るとなるほどという記事が
つまり
●琉球王家の始祖である舜天王の父は源頼朝の叔父の源為朝
では琉球王家の前は•••
http://agora-web.jp/archives/2030571.html
より
日本人は弥生人と縄文人という先祖をもっているが、本土では中国人や韓国人と共通性が高い弥生人が優勢だ。しかし、弥生人がやってくる前から日本列島に住んでいた縄文人らしい特質をもつ人たちは、北海道や東北と南九州や南西諸島に多い。そういう意味では、沖縄の人は日本人のなかでもっとも中国人と縁遠い存在だ。
沖縄は日本列島でもっとも早く人が住み始めたのだが、現在の住人の主流は平安時代以降に鹿児島など南九州から移ってきたのでないかという説が有力だ。
沖縄で農業が盛んになりクニが生まれ始めたのは、鎌倉時代から室町時代になってだが、彼らと日本のつながりは盛んだったが非公式のものにとどまり、明帝国から使いがやってきて朝貢を勧め、冊封国としての琉球王国が成立した。
二千円札の図柄になっている「守礼門」は、中国からの使節を迎えて琉球国王となるべき世子が三跪九叩頭して迎える施設であり、「守礼之邦」という扁額にある銘は、中国の皇帝に忠実であることを意味するもので、「礼節が重んじられる国」などいう意味はまったくない。
略
源為朝の子といわれる舜天王
琉球王国の正史の「中山世鑑」は、ヤマトにおける「日本書紀」のようなものだが、源頼朝の叔父で保元の乱で敗れて伊豆大島に流された源為朝が、本島北部の運天港に漂着し、大里按司という沖縄の有力者の娘と結婚して生まれた子が、琉球王家の始祖である舜天王(在位:1187~1237年)になったとしている。
源為朝かどうかは別として、南九州あたりから、農業についての知識を持ったり、武芸に優れた個人や集団がやってきて支配者となったことが多かったという歴史的な事実を示唆している。
また、「中山世鑑」では、舜天王以前に、阿摩美久という神が天帝の指示に従って、南九州からやってきて建国したと言うことになっている。その系統が25代の間、続いたという神話的時代のあとに、源為朝の子である舜天王が王国を建てたとされている。
しかし、舜天王統は三世代で終わり(1187~1259年)、英祖王統の時代となる(1260~1359年)。このころ、仏教がヤマトの禅鑑という僧によって伝わり、仮名も使い始められた。
そして、察度王(在位:1350~1395年)という人物が現れ、これが、中山王国を建国し、1368年に中国で成立した明帝国の勧めに応じて朝貢し冊封されることになる(1372年)。このころ、南部や北部でも有力な王国が現れ、糸満市の大里にあった南山王国は1380年、今帰仁の北山王国は1383年にそれぞれ明から冊封された。
また、以下の内容も見つけました。
なんだか小渕総理のお人柄、ジーンときました!
小渕恵三首相がなぜ、サミットの開催を沖縄に決めたのか、二千円札を発行したのかがわかりました。
日本に帰化したチベット生まれのペマ・ギャルポさん(大学教授・昨年ブータン国王が来訪した時の通訳をした人)が本の中で語っていました。
略
ここの内容がぎょっとします。
小渕さんは日本国の沖縄県を、世界に自然体で認識させました。
沖縄のシンボルを日本のお札に使うことで、明確に「沖縄は日本の領土だ」ということを世界に知らせたのだそうです。
でも、残念ながら小渕さんはサミットに出席することもなく、二千円札発行前に突然亡くなってしまいました。
首里城の火災
世界遺産”首里城で火災 過去にも4回の火災で繰り返し再建
首里城の歴史 本当に深いです。
再建を願います!