その日の朝食晴れはカフェオレコーヒー
ビスケットとクラッカーでした。

帝王切開の手術を受けたのは前日の事、
それなのにもう赤ちゃんクマ帽子ベビー
授乳赤ちゃん哺乳瓶、おむつオムツ変え、お風呂温泉のすべてを
自分でやらなければいけませんでした

病室にはTVテレビも時計時計もなく、
となりの方とおしゃべりキスマークすることもできない私は
唯一食事ナイフとフォークの時間と午後3時と夜8時のおやつキャンディー
パパが面会に来てくれる午後2時と夕方6時だけでした。

そのほかの時間時計は赤ちゃんクマ帽子ベビーのお世話をする以外は
寝るかぐぅぐぅ、持ってきていた単語帳本を読んだり、
愛するラブラブ山崎まさよしのCDCDを聞いたりしていました。

ところが、たまたま厳しい看護婦さんの目目にとまり、
パパが面会の時、
CDCDは持って帰ってしまいましたガーン

この日の昼食、夕食ナイフとフォークは、
フェイジョンクロマメ(豆の煮込み)、
ごはんおにぎり、肉類ぶーぶー、サラダサラダにフルーツリンゴでした。

おやつはカフェオレコーヒーにビスケットビスケットやクラッカー、
スポンジケーキケーキ(これがまたデカイ!!)等でした。
帝王切開でのお産を終えてしばらくすると、
看護婦さんが横に寝ていた息子クマ帽子ベビー
ベッドベッドに寝ていた私の足の間にのせて、
そのまま病室へ移りました。

そこは二人部屋で前日出産したブラジル人女性ブラジル
赤ちゃんあひるにおっぱいを飲ませていました。

息子クマ帽子ベビーは私の隣にある小さなベッドベッドに寝かされました。

そのあと係りの人が来て、
息子クマ帽子ベビーをお風呂温泉に入れてくれました。


午後6時の面会時間星空になると、
パパと義母が用意しておいた私の荷物カバン
持ってきてくれました。
(感染防止のため娘女の子は会うことはできずに外で待っていました。)

術後8時間時計を経過すると、
看護婦さんからシャワー温泉を浴びるように指示をされ、
少し血のついた術衣をぬぐと、
シャワー温泉を当てながら傷口を覆っていたテープを
はがしてくれました。

その日の夕食ナイフとフォークはスープとサラダとフルーツリンゴでした。

授乳赤ちゃん哺乳瓶&おむつオムツ変えは
痛いおなかをかばいながら
自分でしなければいけませんでしたガーン


上の子の時もそうでしたが私は本当に少ししか母乳赤ちゃん哺乳瓶が出ずに
息子クマ帽子ベビーのおなかを満たしてやることができず涙
その日の夜は寝ることができませんでした354354

何度か看護婦さんに
「レイチ(牛乳)牛さん」とお願いしましたが
「ノン ポージ(だめですよ)」
と言われてしまいました泣き
(母乳育児に関してはかなり厳しいらしいです…涙

そしてたまりかねてパパからお願いしてもらい次の日からやっと、
小さなプラスチックのコップに入れたミルク赤ちゃん哺乳瓶
持って来てくれるようになりましたバンザイ
点滴点滴(抗生物質と思われます。)を打ちながら、
看護婦さんがいくつか質問をしながら何やら書いていましたが、
必要になりそうな単語を勉強はしていたものの、
結局よくわかりませんでしたあせる
(手術後にパパが答えていました笑

しばらくすると私が寝ていたベッドベッドを看護婦さんたちが押して、
手術室へと向かいました。

かなり大きなフロアにいくつも手術ができるスペースがあって、
それぞれの部屋には扉はなく、
途中でほかの産婦さんのおまたのあたりが見えそうになり顔文字
ちょっと気恥ずかしく思いました笑

そして一番奥の手術スペースへと運ばれました。

パパが事前に私がほとんどポルトガル語ブラジル
しゃべれないことを伝えてくれていたので、
私の手術担当の先生は日系日本の少し日本語が分かる先生でした。

そして、足を延ばした状態で前かがみになり、
腰をつきだして麻酔注射硬膜外麻酔と思われます)の
チューブの先についた針を腰のあたりに射しました。

麻酔注射の効き目を確認するとおなかから下を布で覆われました。

日本日本での上の子の出産のときには麻酔注射の効き目が甘く、
切られてる包丁感触や内臓を触れている感触がモロに分かって、
かなり気持ち悪かったドクロのですが、
今回は痛みは感じないものの、
医師がおなかを押す感じや赤ちゃんをを引っ張り出す感じはわかりました。

そして、赤ちゃんの処置を済ませると、
私の顔のところまで連れてきて「男の子だよクマ帽子ベビー
日本語日本で言ってくれました。

産声を聞いたときに
「ああ、上の子の産声とおんなじだ~ラブラブ
と思いました。

ちなみに上の子の時は意識がもうろうとしていて、
姿を見た覚えがなくダウン、かろうじて産声だけは聞いていましたあせる

そして、気分が悪くなってきた私に先生が日本語日本で、
「具合悪いはてなマークちょっと寝るからねぐぅぐぅ
と言いながら点滴の管に薬を注入注射して、
気がついたら術後の待機室にいました。

ふと横を見ると
小さな小さな息子クマ帽子ベビー
すやすやと眠っていましたラブラブ
臨月に入ったころから、
susの診療所での診察に加えて、
マテルニダージと呼ばれる産科専門病院病院での診察がありました。

SUSが週一回、
マテルニダージが週一回。
(…つまり週2回も診察を受けていました。)

このころから子宮口がかたい、
赤ん坊が下りてこないと言われていました。

そこで、妊娠7カ月ごろから行っていた
マタニティヨガ(日本日本でDVDCDつきの本を買って持ってきていました。)
に加えて、スクワットを1日20回行っていました。

そして、いつ何があってもいいように
入院の荷物を整えておきました。
 
自分の着替えやタオル、石鹸等に加えて、
新生児用のおむつオムツ、新生児用の服、おしりふき、
おむつかぶれ防止用クリームHIPOGUROS
悪露の処理のために尿取りパッドなど。


そして、日本日本でいう出産予定日の一週間前くらいから
前駆陣痛と思われる症状がありました。

10分おきの痛みが2~3時間続いたと思ったら
消えてしまうの繰り返し…かんにん

その状態が3週間も続いてドキドキしました顔文字

日本日本の出産予定日を5日ほど過ぎた日の夜星空
軽い出血がありました。

「おしるしか!?と思いましたが、
結局そのまま何事もなく朝晴れを迎えました。

その日はちょうどマテルニダージ病院の診察がある日だったので、
医師にそのことを伝えると、エコー検査をしてくださいと言われ、
検査結果を持って行くと羊水が減ってきている!!
(破水していたらしい)
と言われました。

そして、看護師さんが車いすを持ってきました。

わけがわからない私に向かって、
「このまま入院するらしいよ。」
とパパが一言。

ええ~叫び

いきなり一人にされ、
看護婦さんが車いすを押してくれて向かった先は
手術のための点滴をする部屋でした…ドクロ
妊娠8カ月ごろになると、
いよいよ産院病院を決めなければなりません。

前述の通り医療保険を持っている場合は
その提携病院病院を使うことができますが、
手続き後1年以内は出産時に使うことができません。

したがって我が家の場合は
公立病院病院の中から選ぶことになりました。

①つき添い不可の評判の良いキラキラ病院
②評判はいまいちドクロだけど付き添いありの病院


のうちから選ぶことになりました。

ブラジルブラジルへ来て半年くらいしか経っていない私は
多少の勉強本はしていたもののやはり言葉が不自由ショック!
もはや究極の選択でした…叫び

出産自体が初めてではないわたしは、
しかも上の子の時に妊娠中毒症が出てしまいショック!
しかも子供が全くと言っていいほど降りてこなかったため、
帝王切開点滴で出産をしました。

日本日本で出産していても帝王切開になることは免れないので、
一度経験していることも踏まえて、
①付き添い不可の評判の良いキラキラ病院に決めました。

ブラジルブラジルは世界一の帝王切開大国です。


正直言って、
清水の舞台から飛び降りる心境でした…叫び
さて、妊娠6カ月に入ったころから、
近くのSUSの診療所病院にて妊婦健診を受けることが可能になったわけですが、
ブラジルブラジルの場合は妊娠期間を9カ月として数えます

日本で日本は最終生理の初日からのカウントですが、
こちらは妊娠が成立した時期、
排卵日あたりからカウントします。

ですので、週数で考えると日本日本の数え方とは
2週間ほどずれていることになります。

そして、出産予定日は日本日本の予定日の1週間後、
つまり過産週数の初日になります。


ブラジルブラジルには母子手帳はありませんが、
代わりに妊娠中と産後をわけて、
リーフレットのようなものをもらいます。
ここに、週数や体重、検査結果等を書き込んでもらいます。

検診病院は基本は月に一回。
臨月は週に一回となります。


最初の検診に行った際には
夫婦そろって、検便、検尿、血液検査を受けました。
(日本では妊婦だけですよね…。)

そのほかに心音検査とエコー検査もしました。
(こちらではエコー検査の事を
ウルトラソノグラフィアと言います。
 ウルトラソンでも通じます。)

ですがSUSの診療所ではエコーの画像を見せてはもらえないので、
パパが手続きをした医療保険会社の提携病院家に頼んで、
エコー画像をDVDCDにしてもらいました。

この時、女医さんが画面をを指差して、
「ピューピュー」
と言いました。


そこにはツンととがった
男の子のシンボルが
はっきりと見えました笑




  
先月下の息子がめでたく
1歳の誕生日を迎えました音譜

記念して、ブラジルブラジルでの出産の事を
振り返っていきたいと思います。

2010年2月に
ここブラジルサンパウロブラジルに引っ越してきた時は
妊娠三カ月の終わり13週の時でした。

「出発準備②」のページでも書いている通り、
日本の産婦人科の先生には

「あなたは一度流産しているし、
何があっても保証はできませんよむかっ


と言われていました。

おまけに出発前に超ハードスケジュールで、
友達や家族とあいさつを交わしてからの就航でした。
(参照:関西空港発ドバイ経由ブラジルサンパウロ行き)


それがたたってか、
娘は感染性胃腸炎で道中嘔吐しまくり…ドクロ

ブラジルブラジルへ到着してからも状況は好転せず、
仕方なく娘を病院病院へ連れて行き、事なきを得ました。

ブラジルブラジルに住んでいたことのある方なら分かると思いますが、
診察代が無料の公立病院病院がありますが
見てもらうのが何時間先になるかわらないところがあるため
緊急の場合は私立病院へ行くのですが、
医療保険を持たない場合は診察台が非常に高くつきます叫び


この時はブラジルブラジルへ到着した次の日の事ですので、
当然医療保険の準備なんてしているはずもなく、
とりあえず義妹さんが建て替えてくれました。

この医療保険の利用のためには
まず、私の住民登録と外国人登録が必要で
パパと一緒に娘を連れていったのですが
手続きが遅々として進まず、
結局6時間も待たされましたあせる
(朝一に行って、開館を並んで待っていたにもかかわらずドクロ)


そして、手続きが終わったと思ったら
住民登録と外国人登録の交付は2ヶ月後…ダウン

そして、ようやっと医療保険の手続きをしたにもかかわらず、
手続き後1年以内は出産時には使えないことが判明叫び

仕方なく、パパがSUSと呼ばれる公立の診療所で手続きをして、
やっとこさ妊婦健診を受けることができたのは
なんと妊娠6カ月に入ったころでしたドクロ
今日は義妹さんの勤めている日本人ブラジルクラブにて
母の日のパーティーがありましたクラッカー

義妹さんは風邪カゼをこじらせて
ダウンダウンしてしまい姿を見せず、
ちょっと淋しい
パーティーになってしまいました。

母の日のはずなんだけど、
私は会場ビルへ着いた早々、
女の子をトイレトイレに連れていくために走り走る人
さらに会場のすぐそばの公園へすべりだい
走っていく娘女の子を追いかけ、
下の息子ヒヨコを義母に任せて、
私とパパが交代で
女の子を追いかけていました走る人


今日は小さい子供女の子男の子を連れた人が多く、
明らかに日本人日本という方も、
ブラジル人ブラジルという方も
みんなわが子を追いかけてました笑

会場のそばの公園すべりだいで、
同じ年頃の男の子男の子を連れた
ブラジル人ブラジルらしきお母さんと、
「エネルギー余ってる…ガックリ
「うんうん。」
「疲れたあせる
「うんうん」
とポルトガル語で簡単な会話をしました笑

日本人日本と言えど、
ブラジル人ブラジルと言えど、

子育ての苦労は
みんな一緒なんだなぁと感じました。
先週5月8日は
ここブラジルブラジルでも母の日ラブラブでしたニコニコ

そして今日、
娘が通う学校学校母の日ラブラブのイベントが行われました!!

子供たちからお母さんたちにダンスフラメンコのプレゼントです。


元気いっぱいクラッカーの子供たちの姿をご覧くださいキラキラ



モンキーダンス 教えてる先生たちの年が分かるね(笑)

$もう一つの日本が南半球にありました。

come(ごはん)がテーマのダンス
$もう一つの日本が南半球にありました。

それぞれのお母さんの
名前が書かれたハートドキドキを持ってフィナーレ!!


$もう一つの日本が南半球にありました。

ちょっと今回暗いダウン話です。
苦手な方はスルーしてください。


私は小さいころから引っ越し荷物運びの多い人生でした。

そして今は私の出身地から世界中で一番遠い
ブラジルサンパウロブラジルに住んでいます。

以前ちらっと書きましたが、
私の両親は父親が借金¥を重ねて債務整理しており、
住んでいた公営住宅ビルを追われ、
それをきっかけに両親は離婚していましたしょぼん

姉は母親と、私は父親を一人にしたくない一心で
父親と暮らすことにしました。

その後も、一部整理しきれなかった返済をしながらも
父はさらに借金¥を背負ってしまい、
苦しい生活を強いられました叫び

私も、定時制高校学校に通いながら
自分の必要経費はアルバイトバイトで稼いでいました。

父はお人よしというか、
頼まれたら嫌とは言えない性格で、
その結果の借金¥でしたダウン


そんな父のそばで暮しているうちに、
私は自分が苦労しているのは
両親のせいだと思うようになりましたプンプン

早く両親と縁を切りカットたい、
早く自立したいとそんなことばかり考えていました。


でも今、人の子の親になってみて、
人並みの苦労も経験してみて、
その時、両親がそれぞれ抱えてた思いが
ありありとわかるようになってきましたひらめき電球


そして、先月の震災ドクロや、
母の入院病院などがあって、
いざ、家族の危篤のときに
駆けつけることができるだろうかと
悩んでいるしょぼん自分がいます。

家族なんていないも同然と思っていた私が、
ちゃんと家族を恋しいラブラブと思う気持ちを
持っていたんだということに気がつきました。

この2万キロという距離がそう思わせているのかな…はてなマークはてなマーク