吾輩は猫である。名前はまだ無い。とまあ恥の多い生涯を送ってきたわけよ。僕が生まれたのは秋だったらしい。記憶にあるのは、トンネルを抜けたすぐ先の雪国からなんだけどね。
僕は今、猫らしく自由気ままに暮らしている。でもね、昔は外で鎖につながれて飼われていたの。それ自体は大して苦ではなかった。ご主人様は毎日お散歩に連れていってくださるし、毎日ご飯をくださる。たくさん撫でてくださるし、ぎゅうってされたときのご主人様のにおいは大好きなんだ。雪が綺麗と笑う余裕もないくらい寒かった夜にご主人様が持ってきてくださった湯たんぽは本当にうれしかったな。それはさて置き、おうちの中を覗いてみるとこたつで丸くなる三匹の猫。しかも、ご主人様も一緒に寝てる。僕は外で震えているのに何でみんなはこたつの中にいるのかな。僕だってこたつの中でご主人様と一緒に寝たいけど、それはなぜか許されないんだ。
僕は遊ぶのが大好きなんだ。蝶々を追いかけてみたり、庭に穴を掘ってみたりして、ひとりで遊ぶこともあるよ。ご主人様とボール遊びをするのも大好きだよ。なかなか口からボールを離さなくてごめんねとは思ってるけど、遊んでると楽しくなっちゃって離せないんだ。普段、ご主人様はお仕事だから一緒に遊ぶのは三匹の猫たち。一緒にじゃれ合ったり、一緒に日向ぼっこをしたりとにかく楽しいんだ。でも、夕方になっておうちに入るようにご主人様に呼ばれるのは三匹の猫たちだけ。僕はご主人様とお散歩が終わったら外にあるおうちで眠るんだ。
ご飯の時間も僕は特別なんだよ。三匹の猫たちはいつでも好きなときにご飯が食べられるんだ。食べたいときはご主人様の近くで鳴けばいいって言ってた。おかしいな。僕は朝と晩の一日二回と決まってる。しかも、僕だけは「お座り」とか「待て」とかさせるんだ。そういえば、僕も三匹の猫たちのまねをして鳴いてみたの。そうしたらご主人様にすごく怒られたんだよ。なんでだろうね。
僕も三匹の猫も普通に四本足で歩く。全身毛むくじゃらだし、しっぽだってある。同じなんだよ。だけど何かが僕とは違うんだ。三匹の猫たちが居間で寝ていればかわいいと言われるのに、僕は居間に上がっただけで怒られる。三匹の猫たちは壁や柱で爪のお手入れをしているらしいよ。僕だって本当はやってみたいんだよ。そう言えば、みんなは爪をしまっているのに、僕はなんでしまえないんだろう。
ここは雪国だから冬の時期はとても長いんだ。僕は少し大人になったんだけど、雪が解ける気配は全くない。うっかり間違えて芽を出してしまったお花が枯れてしまっている。ねえ、この気持ちは何だろうね。いつも遊んでる三匹の猫たち、一緒にいるとなんかドキドキするんだ。僕、あのこのことが好きみたい。なんか僕の心に春が来たような気がしたんだ。
そこから一生懸命アプローチの方法を考えたよ。だけどさ、僕の恋は何かが違うんだ。最近さ、あの猫以外の二匹が仲がいいの。だから、あの猫はいつも僕のそばにいるんだ。それはそれでとてもうれしいよ。でも、これ以上恋が発展することはないんだよね。仲良しなあの二匹の関係と、僕とあの猫との関係は、気持ちは同じだとしても違うものなんだ。僕とあの猫が結ばれることは決してない。それはわかっている。僕も大人になってきて、自分は猫じゃないんだと薄々気が付いてきているんだ。だけど、認められないんだ。認めたくないんだ。僕はこの仲のいい関係を壊してしまうのが怖い。関係が崩れてしまうのなら、この気持ちは僕の心の中だけに留めておくほうが幸せなんだ。
僕はあくまでも猫としてあの猫が好きなんだ。でも、この気持ちが伝わることはない。いくら僕が「僕は猫なんだ」と言い張っても所詮、僕は猫じゃない。僕が鼠を追いかけても、僕がいくらゴロゴロ喉を鳴らしてみても所詮は猫ではないんだ。猫になりきることはできないんだ。
ご主人様とお散歩に行くとよく言われるんだ。「かわいいワンちゃんですね」ってね。そう言われても素直に喜べない僕がいるんだ。もちろんご主人様の顔を見るとね、僕が褒められてうれしそうな顔をしているの。僕はその顔が大好きなんだ。でもさ、僕は猫なんだもん。これは犬として褒められているんだ。頭撫でてもらえるのはうれしいんだけど、僕は猫なんだ。まあ、普通に考えたら猫は散歩なんてしないんだけどね。
ご主人様は僕に犬らしさを求めてくるんだ。大人になるに従ってだんだんとそれに気が付いてきた。だから僕はご主人様の前では犬らしく演じてきた。ご主人様が好きだから、ご主人様の期待には応えたかった。でも、正直に言うと、僕には何が犬らしいかなんてわからないんだ。僕のやりたいようにやれば、ご主人様はいい顔をしない。ご主人様のために尽くして尽くして尽くしまくるのが僕の役目なのかな。これが犬らしさなのかな。だったら僕は犬として生きることなんかできない。
僕にはいまだに春は来ない。三匹の猫たちはもう十匹を超えるまでに増えている。誰かに気づいてほしい僕のこの気持ち。僕は大きな声で鳴いてみた。だけど、大好きなご主人様も僕の気持ちには気が付いてくれない。どうやったら、ご主人様に気が付いてもらえるか。錆びた鎖をちぎって逃げちゃえばいいのかな。それともご主人様の言うことを聞かなかったら心配してくれるかな。ご主人様の手に噛みつけばアピールになるかな。いや待て待て、さすがにご主人様に噛みついたらまずいよね。
決めた、まずはここから逃げてご主人様に振り向いてもらう。僕は猫なんだ、思うがまに好きなことができる猫なんだ。それで脱走を計画したんだけど、鎖って硬いんだね。なかなか外れないんだ。こうなったら、チャンスはお散歩のときしかないな。
やっと僕にも春が来た。はずだった。僕は今、雨風をしのげる檻の中、冷たいコンクリートの上にいるんだ。もちろん僕は犬ばかりいるお部屋に入れられてる。周りには薄汚れた犬やずっと吠え続けている犬、あれれ子犬も何匹もいるんだね。なんかみんな暗い顔しているよ。そう言えば、大好きなご主人様の顔をしばらく見ていないな。ご主人様元気かな。あれ、なんでこんな時間にお散歩するの。なんでご主人様じゃない知らないお兄さんとお散歩に行かないといけないのかな。まあいいや、ほら僕を連れてるお兄さんついてこい、一緒に走るぞ。毎日のお兄さんとお散歩は楽しいんだけど、やっぱり、ご主人様とお散歩したい。ご主人様、どうしちゃったんだろう。そういえば、昨日よりもお部屋が静かだな。そうだよね、子犬は新しい家族が決まったんだってね。僕がご主人様に引き取られたころは、確かあれくらい幼かった。僕はお父さんの顔もお母さんの顔も知らない。あの子たちもきっとそうなんだろうね。薄汚れた犬と、ずっと吠え続けている犬はどこに行ったんだろう。お散歩に行ったのかな。それにしては長いね。あいつらばっかりいっぱいお散歩できて羨ましいな。もしかして、僕もここに長くいればたくさんお散歩にいけるようになるのかな。もし、ずっとお散歩にいけるようになったらどうしようか。僕、ご主人様と一緒に桜の花が見たいな。それに僕、ご主人様と一緒にボール遊びしたい。ずっとお散歩してお散歩してお散歩して、僕はご主人様のところに帰りたいよ。ご主人様にもう一度撫でてもらいたい。ご主人様にもう一度ぎゅっとしてもらいたい。大好きなご主人様、どうして会えないの。
檻の中に新メンバーが加入してきた。気が付いたら僕は一番長くここにいる。ここのお散歩の時間にはもう慣れた。お兄さん、今日も走るよって、僕はいつも通りお兄さんを先導する。いつもは散歩ひもを強く引っ張るお兄さんが今日は優しい。僕と一緒に走ってくれる。穴掘りだって好きなだけやらしてくれるし、ボール遊びもした。おまけにおやつまでくれた。僕はとても楽しかった。すべて思うがままにことが流れていく。とても気分がよかった。お兄さんも泣いて喜ぶくらい楽しそうで僕は大満足で檻の中へ戻った。
やっぱり、僕は犬じゃない。猫だ。幸いにも僕は檻の中ではリーダーにまで上がれた。だから、みんなが気を利かせて優しくしてくれる。そして、僕は自由気ままに好きなことができる。今日入った新入りも周りの雰囲気を察したのだろう。僕にはとても気を使ってくる。いつもの散歩よりもまだ早い時間なのにお兄さんが僕を呼んでいる。昨日、泣くぐらい楽しい散歩だったから、今日も早く行きたいのだろう。しかし今日はいつもとは反対方向の部屋へ連れていかれた。ここは何の部屋だろうか。狭い部屋に僕はひとり残された。時計の針が十四時を示したころ、僕は長い散歩へ出発した。苦しくて苦しくて息ができすもがき続け、やっとのことでご主人様のところに帰ることができた。僕はもう犬でも猫でもどうでもよかった。とにかくご主人様のところへ帰りたかった。ご主人様は笑っていた。ご主人様の横では三匹の猫がこたつで寝ている。外の犬小屋では、まだ幼い子犬が震えている。この子犬も同じ運命を歩むのかな。隣にいるあの猫に僕は話しかけたんだ。これからやっと僕にも春が来る。最後に言いたいことが一つだけあるんだ。もう僕のご主人様ではなくなったあなたへ、もうこれ以上の「恥」を積まないで。



