悩みを打ち消すには宇宙の中でただ一人で生きるしかない。けれどそんなことは起こりようがない。
(人は孤独を感じるのにも他者を欲する。社会という文脈の中でしか個人は成立しない)
「人生の嘘」:世界はいつでも危険なところになりうるし、あらゆる他者を他人とみなすことも可能。様々な口実を見つけて人生のタスクを回避するのに勇気はいらない。
「課題の分離」:自分が信じる最善の道を選ぶこと。それについて他者がどのような評価を下すかは他者の課題であって、自分の課題ではない。
(逆に、他者の課題に介入するのは、自己中心的な発想。)
アプローチ=「ロバを水辺に連れていくことはできる。そして、水を飲ませることはできない」
対人関係のカードは常に私が握っている。問題は常に、私、と、今、である。
(「課題の分離」:他者を操作するためにするのではない。他者が変わるか変わらないかは他者の課題。)
「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」(前提としての「課題の分離」)
自己への執着、を、他者への関心、に切り替える。
自己受容:大切なのは何が与えられるかではなく、与えられたものをどう使うか。
「神よ、願わくば私に、変えることができない物事を受け入れる落ち着きと、変えることができる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵を授けたまえ」(ニーバーの祈り)
または、「前向きな諦め」。
他者信頼:反対語は「懐疑」。懐疑的な態度を感じ取ったときに自分がどう感じるかを逆に考えてみれば、どのように行動すればよいかは自ずと明らか。
Again, 「課題の分離」。まずは自分から実行する。他者がそれにどう反応するか、例えば裏切るかどうか、は他者の課題。自分の課題ではない。痛みや悲しみを受けとめる勇気を持とう。
「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして2人は互いにすべてを受け入れあえる友人になれる。残りの7人はどちらでもない人々だ。」(ユダヤ教の教え)
普通であることの勇気。普通は無能とは異なる。特別である「必要」はない。
また、今この瞬間は、人生という線の一部ではない。過去がどうであろうと、未来がどうなろうと、今この瞬間に最善のことを、淡々と実行することができる。我々は「いま、ここ」にしか生きることができない。過程そのものを結果と見なす動き。
残酷な言い方をすれば「一般的な人生の意味」はない。理不尽な出来事と隣り合わせであるのは現実。他方で、それがあることと、自分がどのように行動するかは、別の問題。人生の意味は、自分が自分で与えるものだ。