悲しみを通して 魂に至れ

悲しみは、愛情に大変よく似ている。災難が起こったときは、その間中、悲しみが人々を友情の絆で結ぶ。

悲しみは貧苦を和らげ、心を清める。悲しみだけが教えてくれる心の富は、あまりにも素晴らしく、あまりにも多様なので、とても全部を紹介することはできない。悲しむことができる脳力は、それだけで、その人の精神的資質の深さを示している。悲しみを知っていれば悪人ではいられない。

悲しみは自分自身の心の内側を見つめさせる。人が我に返り、自分の心の内側に途方もない力があることに気付くと、愛する者のことや、事業の失敗、自分の力の及ばない肉体上の苦痛などの意味が明らかになる。
 
悲しみが与えられさえすれば、利己的な態度や傲慢、虚栄や自己愛が取り除かれるが、これも自然が企図した心身の鍛錬であるように思われてならない。悲しみも失敗と同じように、恩恵になるか禍になるかは自分の反応次第なのである。腹を立てずに、自分の鍛錬に欠かせないものとしてうけいれれば、悲しみは大きな恩恵を与えてくれるだろう。腹を立てるばかりで、何も得られないといえば、禍でしかない。どちらを選ぶのもその人次第である。

悲しみが自己憐憫になることがあるが、自分を憐れんでみたところで、自分を弱めることにしかならない。他人の気持ちに同調できるようにならなければ、あるいは自分を鍛える手段として歓迎しなければ、悲しみは自分のためにはならないのだ。悲しいときの祈りはもっとも無限の英知の心を動かすので、明白な結果が現れることが多い。

報われぬ愛がもたらす挫折感は、人生の転機となることが少なくない。悲しみが大きな成功への導き手となるか、あるいは障害となって完全に破滅させるか、という転機である。ここでもまた、選択は完全に本人の手に委ねられているのだ。

自分の心を自由に支配し、自分の選んだ目標に進むというその人の特権は、神でさえ奪えない。


by ナポレオン・ヒル