未来図

 

特定秘密保護法、共謀罪が成立し、その先へ国民を突き動かそうとしているのが今の日本であろう。


そもそも国とはなんであろうかというと、
国があるから、国民が存在できているではなく
人が社会を作り、その社会の集合体が国という形をとっている。国とはそんなものであり、そして、人が生きていく上で重要なのは国ではなく、あくまで社会という集合体である。といえよう。
市民が社会の主役であり、国の主役も市民であるのは疑いない事実である。

 

それでは、
法律や憲法は何かというと、為政者の暴走を抑えるための市民の権利である。
だから、為政者が暴走するときに法律や憲法がその効力を発揮しなければ市民の権利は守られない。


しかし、市民が政治に無知で無関心である状態を国が作らせるために、
市民の意識が政治に向かないように、為政者の失政を市民に気づかせないように様々な誘惑をしてくる。

それが、スポーツであり、映画やテレビ等のメディアやエンターテイメントであり、性産業であり、宗教もそうであり、経済もそうであろう。医療も科学も、日常であって当たり前と思っている物、更には、スマートフォンや携帯電話、嗜好品と呼ばれるものもその誘惑の1つといえよう。
それらに熱狂すればするほど、政治等の生活に密接に関わることから意識は離れ、為政者に対して目を光らせることなく彼らのやりたいようにさせてしまう。

 

民主主義の存続は
為政者にかかっているわけではない。
その為政者を選んだ我々市民の意識にかかっている。
民主主義の成果は、次世代の子どもたちのため、少なくとも平和の芽を渡して、その芽を枯れさせないよう繋いでいくことだ。決して今の生活のためだけで考えてはならない。


今の生活に固執する人が増えれば増えるほど、自己反省より気楽かつ無責任な、為政者の悪口を言える境遇を好んでしまう。
そして、そんな為政者の悪口を言いながら、彼らの命令に服従し自分自身の責任を放棄し、無能で腐敗した為政者に自分たちを売り渡しているのである。

 

そして、そんな国は歴史的に見れば滅亡に向かっている。
かつて、大日本帝国が完膚なきまでに叩き潰されたように、国など滅んでしまっても構わないのかもしれない。国が滅んでも人は残るのだからまた、そこから人はたちあがればいい。
それより一番困るのは国を食い物にしている権力中枢にいる連中であり、彼らのために働いてくれる「奴隷」が必要である。

 

これからわが国では、愛国心、自己犠牲を強調する出来事や、自称愛国者が数多く出現するだろう。
隣国の脅威を煽ってくる自称愛国者やマスコミも増えるだろう。
大事なのは、彼らに任せて政治に参加しようとしてこなかった我々市民の意識だ。そのことを反省し、次世代に胸を張って渡せる社会作りに積極的に参加しなければ70年前の悲劇を繰り返すことでしょう。


ちなみに、僕は無政府主義者ではないので悪しからず。