みなさん、こんにちは。参議院議員の森まさこです。

~『取り立てに怯えた少女が大臣になった』
    第七章 故郷福島を襲った東日本大震災 第3回~


今回は前回に引き続き、第3回目。最後の回となります。

 

《安全確保のための技術は整っていたのに….》
 私が国会で重点的に取り上げた問題の一つに、「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」、通称SPEEDI(スピーディ)をめぐる問題がある。
 SPEEDIとは、原発事故が起きたときに原発周辺地域における放射性物質の大気中濃度、被ばく線量などを予測するものだ。東京都文京区の原子力安全技術センターには、日本が世界に誇る最先端の計算機がある。この計算機は、地形データや風速、風向きなどの気象条件をもとに、放村性物質が漏れた場合、どの方向にどれだけ拡散するかを短時間で予測できる。
 その予測は何のために行うのかといえば、結果を住民の避難に役立て、住民を被ばくから守るためだ。ところが、原発事故の後、SPEEDIの拡散予測図は一向に公表されず、住民避難のために活用されることもなかった。原子力安全技術センターを所管する文部科学省が一部公表に踏み切ったのは、事故から一カ月半もたった四月下旬のことである。
 では、SPEEDIは動いていなかったのか?そんなことはない。私は文京区のSPEEDI本体を実際に見に行き、所長に四回も話を聞いた。SPEEDIを使った予測は事故直後に開始され、予測結果の一部は3月12日未明、官邸の内閣官房職員に伝達されていた。
 原子力安全技術センターにSPEEDIの緊急モードへの切り替えと予測開始を指示したのは文科省である。すぐ後で述べるように、指示を受けた同センターは1時間ごとの予測を始めた。
 これとは別に、原子力安全・保安院も同センターに対して独自にSPEEDIによる予測を依頼した。保安院から依頼された同センターは予測を行い、その結果を3月12日午前1時半過ぎ、官邸地下にいた保安院の職員にファクスで送った。これを受け取った職員が予測結果を内閣官房の職員に伝えていた。
 ところが、情報はここで止まってしまった。政府事故調査・検証委員会の報告書によると、内閣官房職員は「この計算結果を単なる参考情報にすぎないものとして扱い、内閣総理大臣等への報告は行わなかった」という。「また、保安院も、独自にこれを総理らに報告することをしなかった」。
 何という怠慢だろうか。原子力安全・保安院は、内閣が立ち上げた原子力災害対策本部の事務局でもある。なぜ直接、対策本部長の総理に伝えなかったのか。
 万が一の原発事故に備え国は110億円以上のお金をかけてSPEEDIを開発・運用してきたのに、肝心なときに人的ミスによってシステムが機能しなかった。
2011年6月3日、私は参議院予算委員会をはじめとして、何度もこの問題を取り上げた。
 なぜなら、前の年10月の原子力総合防災訓練において、当時の政権の総理は政府対策本部長として原発事故対応の訓練を行っていたからだ。静岡県の浜岡原発で重大事故が起きたという想定で実施された2010年度の訓練項目の中には、SPEEDIによる予測や予測結果をもとにした住民の防護対策も入っていた。
 危機に際して的確な判断と指示ができないのなら原子力総合防災訓練をやる意味がない。どうしたら訓練の成果を生かすことができるのか。私は今も、危機管理に関して勉強を続けている。
 

(4年前に日本人で初めてのエマージェンシーマネージャーという自然災害やテロといった国家的な危機に対応する資格を取得)

《ぬぐいきれぬ疑惑》
 3月11日、大地震の発生後、東京都文京区の原子力安全技術センターは文科省からの指示を受け、福島第一原発から単位量放出、つまり放射性物質が毎時1ベクレルの規模で漏れたと仮定して、ヨウ素など放射性物質の拡散予測を開始した。
 同センターは1時間ごとに予測を行うとともに、予測結果を文科省、原子力安全・保安院、オフサイトセンターなど関係機関に送付した。予測結果は県庁にも送られていた。県議会議事録や報道によれば、県庁にあるSPEEDIの受信端末が使えなくなったため電子メールで送られ、県の職員が受信していた。ところが、職員は86通のメールのうち65通を消去してしまった。データを消去したのはメールの受信容量を確保するためだったという。
前にも書いた通り、震災直後、県庁は庁舎も壊れ、大混乱に陥っていたから、職員は内容の重要性に気づかなかったか、深く考えなかったのだろう。のちに県はこの件について謝罪した。
原発事故で現地の緊急活動拠点となるオフサイトセンターは、福島第一原発から五キロほど離れた大熊町にある。オフサイトセンターの役割はきわめて重要だ。ここには国・県の現地対策本部が置かれ、国の現地対策本部長が派遣される。原子力防災の専門官や東電職員、関係省庁の職員らも派遣され、文字通り、最前線で指揮を執る最重要拠点である。SPEEDIの予測結果の送付先の一つに指定されているのはそのためだ。
ところが、本来集まるべき人がそこまでたどり着けなかったり、機器が壊れて使えなくなったりで、オフサイトセンターは機能不全に陥った。屋内の放射線量が高まったことから、3月15日に原発から約60キロ離れた県庁まで撤退した。
6月11日、私は石破茂自民党政調会長(当時)と一緒にオフサイトセンターに入った。SPEEDI予測結果のファクスは届いていた。ファクス機の上に残されていた。残念でならない。

《250人の子どもたち》
もしSPEEDIの予測情報がもっと早く公表されていたら、原発周辺から避難を始めた住民たちが放射線量が流れた風向きと全く同じ方向に移動するという事態は起きなかっただろう。
浪江町の苅野小学校は原発から半径10キロ圏の外側にある。3月12日早朝、半径10キロ圏に避難指示が出て、その地域の人たちが苅野小学校など圏外の施設へと避難してきた。しかし、お昼過ぎ、第一原発一号機でベントが行われ、午後3時36分には水素爆発が起こった。このため政府は避難指示の範囲を半径20キロ圏に拡大した。しかし、知らされなかった。
 当時、苅野小学校に避難していたのは約600人。子どもたちも約250人いた。彼らは浪江町西部の津島地区に向けて避難を始めた。そこには役場の支所がある。海から遠く離れた山間部なら被ばくの恐れはないだろうという読みもあった。
 しかし、彼らは放射線量の高い方へ高い方へと移動してしまったのだ。ベントや一号機の爆発だけでなく、二回目の爆発(三号機、14日午前11時1分)も受けてしまった。そのときも爆発はテレビ報道で後から知った。すぐ近くにいたのに、知らないからみんな屋外にいた。寒いので水を沸かしてその水も飲んでしまった。屋外で炊き出しもして、そのおにぎりも子どもたちが食べてしまった。
 津島支所には15日夜までとどまった。ガソリンもなく、すぐには移動できなかったからだ。いったいなぜこんなことになったのか。のちに大熊町のオフサイトセンターに入ったとき、ホワイトボードには避難者たちの状況が記録されていた。浪江町に何人、どこそこの地点に何人というように、場所と人数が書かれていた。
 そこまでわかっていたのなら、撤退する前になぜ避難誘導してくれなかったのだろう。SPEEDIの予測データをもとに何らかの手を打てたのではないか。避難ルートは一つというわけではなかった。もっと放射線量の低いいくつかの別のルーで逃げることだってできた。政府の指示があれば、少なくとも高放射線量地域に滞在する危険性を減らすことはできたはずだ。これでは福島の人たちが「私たちは国に見捨てられた」と思うのも無理はない。

《問われる国の姿勢》
 子どもが放射性ヨウ素で内部被ばくした場合、甲状腺がんのリスクが高まることが言われている。被ばくの恐れがあるときは、安定ヨウ素剤という薬を服用すればよい。被ばくする24時間前から被ばく直後にこれを飲むと、放射性ヨウ素の甲状腺への集積を90%以上抑えられる。重要なのは飲む時期で、被ばく後24時間を過ぎて飲んでも効果は10%以下に落ちるという(国会事故調報告書による)。
 250人の子どもたちは放射線量の高い地域に三日間もいた。それなのに安定ヨウ素剤を与えることができなかった。
 原発周辺の自治体は安定ヨウ素剤を備蓄していたが、住民に服用を指示しなかった。例外は三春町だ。同町は安定ヨウ素剤を備蓄していなかったため、県から調達して住民に配布し、町独自の判断で服用を促した。他の自治体が服用指示を出さなかったのは、国(原子力災害対策本部)からの指示がなかったことが大きい。
 福島県では県立医科大学が中心となり、2011年10月から子どもたちの甲状腺検査を始めた。対象となる子どもは約36万人いる。甲状腺に何らかの異常があるかどうかをチェックする先行検査を終えるまでに2年半もかかった。

《原発事故子ども・被災者支援法》
 政府にやる気がないのなら、国会で法律を作って政府に実行を迫るしかない。子どもたちの甲状腺検査には国が責任を持つ。そういう法律を作ろうということで、議員立法で「原発事故子ども・被災者支援法」を作った。子どもに関する部分は私が起案し、法案の提出者になった。
 健康診断や検査を生涯にわたって実施し、万が一がんになったとしても、早期発見して最先端の治療を施す。その費用は国が持つ。そういうセーフティネットを用意して子どもたちや保護者の方の不安感を取り除いてあげたい。それが「支援法」の目的である。
 ただ、これを作るときは反対も強かった。こういう法律ができると、福島県の子どもは被ばくしているというイメージが広がると懸念する人がいた。万が一に備える法律だと説明しても、「万が一のことがあるんだ」と逆にショックを受けるお母さんもいた。だが、これを作っておかないと、本当に万が一のことがあったとき、早期発見で救済できなくなってしまう。何十回も話し合いを重ねた。
 最後は超党派で法案をまとめ、すべての党の賛成を得て2012年6月21日に国会で可決・成立した。
 小児甲状腺がんは、死に直結するような病気ではない。がんになってもほとんどの人が手術で治っている。
 また、チェルノブイリでは被ばくした牛の牛乳を飲んで甲状腺がんになった子どもが多いが、福島では被ばくした牛は殺処分され、牧草も牛乳も全部廃棄された。子どもたちの被ばく線量もチェルノブイリと比べて少ないと考えられている。それでも親にすれば、不安があると思う。だからこそ、万が一がんになったとしても、早めに対応してきちんと治してあげる体制を作っておくことが大切なのだ。

《復興における教育投資の重要性》
 福島第一原発で事故が起きてからというもの、私はたびたび原発サイトを視察した。毎年1回以上、必ず入るようにしている。最近では1月26日に入ってきた。国会議員ではおそらく最も多く原発サイトに入っていると思う。今は廃炉に向けた工程が進んでいるが、現地に行って直接、状況を確認するようにしている。
 原発関連の海外視察では、アメリカのスリーマイル島原発を訪ねたのが最初である。1979年にワシントンDCから車で約三時間のところで原発事故が起き、核燃料が溶けてあわや大惨事となるところだった。私は2012年10月、現地を訪ね、事故発生と収束の経緯、周辺地域・住民への影響などをつぶさに調査してきた。
 フィンランドのオンカロ処分場も視察した。ここは世界初の最終処分場といわれる。地下400メートルのところに貯蔵庫を造り、そこに使用済み核燃料科を埋めて、10万年というから事実上、半永久的に封印するというもの。
 チェルノブイリには2016年に行って以来、3回視察に行っている。乗り継ぎを含め、片道20時間。事故から30年たっても廃炉はまだ作業中である。その一方、復興は相当進んだという印象を受けた。ウクライナよりも放射能汚染がひどかったのがベラルーシである。そのベラルーシは、今では乳製品が輸出の主要品目となるまでに復興した。バター、チーズ、マーガリン、ヨーグルト、そして当時、小児甲状腺がんの原因となった牛乳も盛んに製造されている。
 農業以外ではIT産業が世界の注目を集めている。高い技術力に惹かれて海外資本が参入している。それは何故か。
 実は、ベラルーシは事故後、子どもたちの教育に力を入れたという。あれから30年たって、ハーバード大学の教授をはじめ、優秀な人材を多数輩出している。しかも、社会の中枢で活躍している人たちは、皆ふるさとを愛する気持ちが強い。
 福島の復興も、これからは教育投資が重要ではないだろうか。私は自民党で、教育再生本部長代理に就任した。将来の福島を背負っていく子どもたちが、しっかりと心も体も強く育つように、私も今後は教育・人材育成の分野に力を入れていきたい。
(海竜社 『取り立てに怯えた少女が大臣になった』 著:森まさこ)
 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

震災から11年目。

福島県民はじめ被災地の皆さまが未来に希望を持って踏み出せるよう、より一層の努力を行ってまいりますので、よろしくお願いいたします!