みなさん、こんにちは。参議院議員の森まさこです。

今年で東日本大震災とそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所事故から10年を迎えます。

しっかりと復興を進めて、県民の皆様に実感していただき、風評と風化をなくすことを実現できるよう、より一層尽力してまいりたいと思っております。

今回は震災10年目を踏まえて、前回紹介させて頂いた私の著書『取り立てに怯えた少女が大臣になった』~第七章 故郷福島を襲った東日本大震災~ を数回に分けて皆さんにお届けします。
震災時の、詳細な現場の様子や被災した方々の悲痛な想いを綴っております。

今一度震災を振り返ることで、当時の教訓を生かし、今後の災害に備えるきっかけにもなればと思います。

~『取り立てに怯えた少女が大臣になった』
    第七章 故郷福島を襲った東日本大震災 第1回~

 

《一刻も早く故郷、福島へ》
 六年前のあの日この目で見た光景を、私は生涯忘れることはないだろう。
 東日本大震災は、2011年3月11日に発生した。
 マグニチュード9.0の巨大地震が起きたとき、私は国会で参議院決算委員会の審議中だった。同機の西田昌司議員が菅直人総理に外国人献金問題について質問している途中、国会議事堂が激しく揺れた。委員長が休憩を宣言した後、外に出て大急ぎで秘書と連絡をとってみると、なんと震源は三陸沖という。
 すぐにいわき市の自分の事務所に電話した。だが、何度かけてもつながらず、携帯も通じない、いわき市にある自宅の親にかけても通じないという状態で、テレビ報道で現地の様子を推測するしかなかった。
 一刻も早く地元に帰ろうと思った私は、車で福島に向かった。海沿いの国道六号線から浜通り(福島県の太平洋に面する地域)に入ろうと考えたが、途中で渋滞で進めなくなった。そのときはまだ福島第一原発が水素爆発を起こす前だったから、福島方面に帰ろうとする車が列をなしていて、夜になっても全然動かないのだ。
 これでは福島までたどり着けない。そこで、いったん戻ってきて今度は四号線から行くことにした。四号線は新幹線と並行して走る国道で、宇都宮から白河、郡山、福島など浜通り(福島県中部)を通って仙台まで通じている。
 平時なら高速道路を使うこともできるが、このときは乗り入れ禁止。救急車や警察車両を除けば、国会議員といえども例外は認められない。そこで、12日は朝から国道と一般道を進み、やっとのことで郡山市の東隣の小野町に入った。そこには秘書の家がある。そこで一泊して、翌13日、県庁のある福島市に向かった。
 出発するとき、秘書の奥さんやお母さんが朝の4時に起きて支度をしていた。町役場に行って炊き出しをするのだという。浜通りの沿岸部が津波に襲われ、家を流された人たちが内陸の中通りのほうまで車で避難してきていた。それを小野町で受け入れて、体育館などに泊まってもらっているという。
 その人たちにおにぎりを届けなければいけないが、続々と避難してくるので数の見当がつかない。町長に「何個作るんですか」と聞いたら、「何個でも。できるだけたくさん」と言われたそうだ。お米を全部炊いてみんなで握り、それをかごに入れて近所の人が集めて運んでいった。

《混乱の極み》
 少し行くと町会議長が歩いているのが目に入った。作業着姿の議長に声をかけると、町長に会っていってほしいと言う。
 小野町の町長は「森先生、電話が通じなくて何の情報もないけど、避難民だけがどんどん来るんです。県庁も国も、とにかく電話したら出てくれと、それだけ言ってくれませんか。電話しても全く通じないんですよ」と困り果てた様子だった。私は「わかりました」と言って、それから福島市まで車を走らせた。福島県庁の建物は壊れていて使えず、消費者センターがある別の建物の三階が対策本部になっていた。対策本部は見るからに混乱していた。鳴りっぱなしの電話をよそに、職員たちが走り回っていた。応対してくれる人を探したが、みんなそれどころではない様子だった。
 ふだん仕事をしている部屋ではないから、机も椅子もその辺から集めてきたものだ。県知事や県の幹部の人たちがどこにいるかもわからない。誰が何の役をするかも決まっていない。平時は住民票を担当している人が、食料を配る仕事や他の仕事に就くといった具合で、みんなこれまでやったことのない仕事をやっていた。混乱の極みだったと思う。
 次は福島第一原発に向かった。というのは、福島まで来る途中の12日午後、一号機で爆発が起き、原子炉建屋が吹き飛んでいたからだ。原発の近くに住む人たちがどうしているのか、直接見に行かなければ心配であった。彼らは地震、津波の被害に加えて放射能汚染の不安にさらされているのだ。対策本部にはマスコミの人たちもたくさんいた。その中に旧知の記者がいたので声をかけたところ、やめたほうがいいと止められた。危険だというのだ。
 マスコミは一緒に来るだろうと思っていた私にとって、この反応は意外だった。「危険かもしれないけど、避難指示が出ていない地域のぎりぎりのところまでは行かないと。そこに人が住んでいるんだから。支援物資も自民党の本部から積んできたし、私は行きますよ」
「私たちは行きません」
「そんなこと言わないで一緒に来てくださいよ」
「いえ。社の命令で、原発地域周辺には行けないのです」
 結局、マスコミは誰も来なかった。

《すさまじかった津波の痕跡》
 3月14日、支援物資を積み込んだ軽トラックで南相馬市に入った。第一原発で二度目の爆発があった日である。
 運転は夫がした。夫は弁護士事務所を休んで私と行動を共にしてくれていた。私は助手席から被災地の様子を撮影した。
 このとき私が撮った映像は、原発に近い被災地の映像としては全国で初めてテレビ放映された(注:住民が撮影したものを除く)。被災地の状況を伝えるのは、本来ならマスコミの仕事だろう。だが、あの当時、マスコミは社の命令により誰も来ていなかったから、記者でもない私が撮ったものが被災地の状況を伝える貴重な記録となったのだ。
 南相馬市の市役所は原発から約25キロのところにある。14日の時点で避難指示が出ていたのは原発から半径20キロ以内である。市役所は圏外だった。
 その市役所から東へ数キロ、海岸から2キロほどの地点に介護老人保健施設「ヨッシーランド」がある。ここで、施設を利用していた約140人のうち36人と職員1人が犠牲になった。
 地震の直後、職員たちは使える車を全部使ってお年寄りたちを避難させたが、一度に全員を運ぶのは困難だった。地震発生から約一時間後、車が戻ってくる前に、施設と周辺一帯は津波にのみ込まれた。
 現場に行って目にした光景は、すさまじいの一語に尽きる。ヨッシーランドは居宅介護支援事務所など関連施設も含め滅茶苦茶に壊れていた。二つあったグループホームのうちの一つは跡形もなくなっていた。周囲は泥に埋まり、がれきや流木、車の残骸が散乱している状態。海に近いほうにも住宅が点在していたというが、それらしきものは何も見えない。地震でこれほどの大津波が来ようとは思いもよらなかった。海岸から二キロも離れていた場所なのに、それでも津波は建物を倒壊させ、尊い命を奪い去っていった。

 見るも無惨に崩れたヨッシーホームの現場は、象徴的な被害風景の一つとして何度となくテレビで放映された。その映像は、マスコミが入ってこない中で、私が現地に行って撮影してきたものだ。記者から「現場へ入ったらビデオを撮ってきてください」と言われていたので後で持って行くと、福島テレビと福島中央テレビが流してくれた。これは全国放送でも流れた。
 地震と津波。そこに原発事故が起き、救援が遅れた地域に人々が取り残された悲惨さを、全国の皆様に少しはお伝えできたと思う。映像は「20110314 森まさこ撮影 被災地映像」(一時間弱)として今もユーチューブに公開してある。
2017年2月初め、再建工事中のヨッシーランドを見に行った。
 高齢化が進み、入所を待っているお年寄りが大勢いるのだから、ヨッシーランドを閉鎖してしまうわけにはいかない。何としても再建すべきだという思いから、私も国会議員として微力を尽くしてきた。
 再建計画は、海の近くから高台に移転し、前と同じようにお年寄りが入れる100床ほどの施設とグループホームをつくるというもの。なんとか実現の目途がつき、地鎮祭が行われたのが震災から6年目に入った2016年5月である。

《家族はどこに・・・?》
 津波が去ってから、南相馬市でご遺体の安置所の一つとなったのが相馬農業高校の体育館である。前出の被災地映像には、そこを訪れた私が現場責任者からお話をうかがうシーンが出てくる。このときは夫が撮影をした。
 多数のご遺体が安置されている体育館内も見せていただいた。どのご遺体も膨れ上がっていて、目鼻さえはっきりしないほどだった。当然、身元の判別は困難を極めた。ビデオカメラを向けるのはあまりにも不謹慎であるから、映像には収めていない。だが、私の脳裏にその光景はしっかりと焼き付いている。それは忘れようとして忘れられるものではない。
 体育館には、行方不明の家族を捜しに多くの人が来ていた。並んでいるご遺体の横には、靴下の切れ端や帽子の一部などが置いてある。それを一つひとつ確認しなから、みんな〝自分の妻かな、夫かな、子どもかな……〟といった様子で捜していた。
 捜している彼らも被災者である。避難所で生活している人たちが、朝も早くから市内にいくつかある遺体安置所にやって来る。中には寒いのに着の身着のまま、パジャマにサンダル履きの人もいた。その日見つからなくても、新しいご遺体があがれば見つかるかもしれない。そう思って、翌日また同じように安置所を一カ所ずつ見て回るのだ。
 ご遺体は海の中やがれきの中から自衛隊員があげてくれて、安置所まで運んでくる。同時に、ご遺体のすぐそばにあった布きれなども一緒に持ってきて横に置く。それはその人のものである可能性もあるが、もしかしたらその人のものではないかもしれない。だから、すぐそばにあったものでは決め手にならない。最後は歯形で確認したり、DNA鑑定で確認したりという作業が必要になるのだが、それはずっと後になってからの話だ。あのとき家族の人たちは、ほんのわずかの手がかりでもないかとすがるような気持ちで捜し続けていたのである。
(海竜社 『取り立てに怯えた少女が大臣になった』 著:森まさこ)
 

次回に続きます。