私の愛した詩人 13-2 高村光太郎
風に乗る智恵子
狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長やチドリと相圖する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴れの風に九十九里の濱はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらわれ
白い砂には松露がある
わたくしは松露をひろひながら
ゆっくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ
千鳥と遊ぶ智恵子
人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ
無数の友だちが智恵子の名をよぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾をつけて
千鳥が智恵子に寄って来る
口の中でいつでも何か言っている智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい、―
両手の貝を千鳥がねだる
智恵子はそれをばらばら投げる
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい、―
人間商売さらりとやめて
もう天然の向うへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぼつんと見える
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびなかせら私はいつまでも立ち尽くす
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしくも白くあかるい死の床で
私の手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トバースいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたくしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎわに
智恵子はもとの千恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それから一時
昔山巓ーさんてんーでしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなりとまった
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
高村光太郎 明治16年~昭和31年。東京で有名な彫刻家、高村光雲の長男として生まれる。東京美術学校で彫刻を学び、また
与謝野晶子『新詩社」同人となり、詩にも卓越する。詩集『道程』。福島県二本松の長沼千恵子と恋愛結婚。彼女の狂気の時も寄り添い、詩集『智恵子抄』を遺す。智恵子の切り絵も有名。