もともと外出好きでなかった原さんは、足腰が弱った80歳ごろから、さらに外出の機会が減ったという。「最後に見かけたのはもう30~40年前」という住民がほとんどだ。「すれ違う時は手をかざして顔を隠すんですけども、あれだけきれいだから分かっちゃうのよ」とある住民は懐かしんだ。
同じ敷地に住んでいた原さんのおい(75)は本紙に「本や新聞を読んだりテレビを見たり、普通の老後でした。本人は『あと5年は生きたい』と言っていました。経済に興味があって、新聞広告で読みたい新書を見つけると『買ってきて』と頼まれてました。異常気象にも気をもんでいて『もっと住みづらくなってしまう』と心配していました」と明かした。
原さんは映画「晩春」や「東京物語」でタッグを組み、結婚の噂もあった小津安二郎監督(享年60)の死去直後、42歳で引退。以後50年以上、表舞台に出ることも、自身の口から引退理由を語ることもなかったのは、本紙昨報通り。
「もともと目立つことが好きではなく、女優もずっと続けようと思ってはいなかったようです。白内障にかかり、撮影のライトを浴びるのも苦痛だったのでしょう。自分の出演作やインタビュー記事も持っていなかったし、女優時代の話も一切しなかった。写真も少し前に、全部自分で破って捨てていた」(同)
映画関係者との交流もほとんど絶った原さんだが、70代くらいまでは毎年1回、小津監督が眠る鎌倉・円覚寺にお参りした。生涯独身を貫いたが「縁談の話もないではなかったですが、本人があまり乗り気でなかったんじゃないかと思います」(同)という。
原さんは8月中旬に肺炎と診断されて神奈川県内の病院に入院。親族に見守られながら息を引き取ったという。
(記事抜粋)
原節子女史は1920年6月17日生まれ 双子座生まれ。四柱推命では庚申年・壬午月・丙午日生まれの傷官格です。壬午は禄馬同郷(ろくばどうきょう)で月柱とはいえ、とてもラッキーな運勢ですね。通根(つうこん)しており、月令を得て帝旺です。年柱は病で弱く、両親がいいときには生まれていませんね。女学校を中退して女優の道を選択しています。月柱・日柱ともに帝旺です。4歳、14歳、24歳・・・というように10年運が切り替わっています。
●<14歳・・・偏財・食神・冠帯>
15歳で映画デビュー。16歳のとき、河内山宗俊の撮影を見学しにやってきたアーノルド・ファンク監督の目にとまり「新しき土」という日独合作映画に出演して注目されています。
●<24歳・・・傷官・印綬・沐浴>
26歳で資生堂のイメージキャラクターになり、「わが青春に悔いなし」(黒澤明)「安城家の舞踏会」(吉村公三郎)29歳で一世を風靡した「青い山脈」(今井正)等で人気を得るも、大根女優と言われて、演技がなっていないと評されることが多かったが、同年、小津安二郎監督の「晩春」に出演する。(美人女優を多数起用する小津監督は原節子女史に初めて間近で会い、本当に綺麗だな~原君はと顔を赤らめたという)小津監督は、その後も原さんを好んで起用している。
●<34歳・・・食神・偏印・長生>
33歳の時、実兄の会田吉男(東宝のカメラマン)が助手と共に事故死。小津監督の「東京物語」に出演する。その後、34歳から体調を崩し入院退院を繰り返す。(食神・偏印で不調)
●<44歳・・・敗財・傷官・養>
43歳の時、かっては結婚の噂のあった小津監督が亡くなってしまう。監督の通夜以来、女史は表舞台から身を引き、マスコミの前には決して姿を現さなかった。鎌倉の妙法寺付近でひっそりと暮らしている。
●<54歳・・・比肩・正官・胎>
●<64歳・・・印綬・偏官・絶>
●<74歳・・・偏印・食神・墓>
74歳の時、東京都内の土地を12億円で売却し、高額納税者番付で75位になり注目を浴びる。(やはり墓が来たときには、不動産や財に関係がする)
●<84歳・・・正官・正財・死>
●<94歳・・・偏官・偏財・病>
歳運では昨年、帝旺であったが、今年は衰が来ており、高齢者には帝旺から衰となるときが、死期となる場合が多く、亡くなった9月5日は病・病・衰となっていました。傷官も2つ来ていました。
小津監督の日記を読みますと、「近頃、自分と原女史とが結婚するという噂があり・・・」などという記述があり、お2人はとても相性がいいです。木生火(もくしょうか)火生土(かしょうど)の関係でお互いが助け合う相乗効果の相性ですし、寅午戌半会、申子辰半会で、愛情運も名誉運も抜群でした。なぜ、結婚しなかったのか?女史は傷官が2つ(偏官2つ)あり、やはり結婚しにくいものがあったのかもしれませんし、小津監督は比肩2つ、印星2つと(印綬もあり、お母さまとは縁が深かったので、監督の死の前年にお母さまが亡くなったいます)結婚に踏み切れなかったのかもしれませんね。



黒澤明監督の「白痴」に出演した原節子女史を見て、小津監督が「あれじゃあ、原君が可哀想だよ。」と黒澤監督に苦言を呈したといいます。小津監督は大根女優と言われている女史に対して「彼女は稀有の女優である。彼女を上手く撮れない監督が悪い。」と擁護してきました。小津監督にとって原節子女史は永遠のミューズであったに違いありません。今生では結ばれなかった2人ですが、今頃、天国で談笑しているでしょう。「遅いよ、原君、待ちくたびれちゃったよ。」「あら、センセ、私、100歳まで生きようと思っていましたのよ。」
後にも先にも、これほどの女優は出てこないであろうし、まるで、日本映画の神時代を築いた小津監督と原節子女史・・・まさに、日本映画が世界に誇れる黄金時代であり、一瞬の輝きであった。
原節子さん、安らかにお眠りください。真に素晴らしい映画をありがとうございました。私たちはあなたを永遠に忘れません。