年内にiPhoneを買います!

あれは何年前になるでしょうか。

iPhone 3GSを購入したのは、今から15年程前の話になります。

当時、某貿易会社で営業の仕事をアルバイトでしていた私は、そこで稼いだ金を元にAppleのiPhone 3GSを購入しました。

あの時の感動は、今でも忘れることはできません。

いつしかこの端末は、世界中の人々の家族となって人と人の繋がりを更に強めていくと思ったのを思い出しました。

Appleの製品は、「学ぶ」を持つ製品で繋がりを大切に販売されている様に思った。

それは、時にポケットからiPhoneを出すよりも先にApple Watchは、ユーザーにメッセージを届けてくれる。

Apple WatchもiPhoneも共に学ぶことの多い製品の筆頭であることは、誰でもこれに触れることができれば分かるに決まっていると私は思ったが、それは人の好き嫌いによる事もあるかもしれない。

私は長年の間、Android端末を使って生活を率いてきた。それは、家族にはiPhoneユーザーだったにも関わらず、Android端末を勧めてきたし、友人たちにもAndroid端末を勧めてきた。

Appleは、同社の製品に「学ぶ」をうまく統合してきた様に思った。

Appleの製品を使うには「学ぶ」をうまく使うことのできる人達に取って、Appleの情報や製品情報、そして使い方を調べる方法は、学ぶ姿勢に比例して、適当な感じでどんどん進めることができる様である。

「学ぶ」を持つApple製品は、人々の集うアメリカ合衆国では自分の言葉をより流暢に、より正確に把握したい人達に情報を提供している様に思った。

それは、Appleの端末だけで無く、Apple TVで視聴できるテレビ番組もそれである。

15年程前にiPhone 3GSを買った私は、その後iPadも買った。この時の感動も言葉にならないほど大きなモノであった。

Appleは、「学ぶ」をその関連した「神からの贈り物」に散らばらせている様に思えるのだが、それは未だ大きな歯車でだけで機能しているに過ぎない様である。

その大きなAppleの歯車は、時計の中の出来事の様に小さな歯車を回すスタートを待っているのだろうか。

果たして、それは何か。

「学ぶ」は、Appleの企業という大きな渦の中でキーボードを長年形作って来た。

Appleのキーボードは、指の短い私に取って、苦労を強いられる神からの贈り物であった。

実は、私はMacbook AirもiMacも、そしてMacbook Proも買ったことをひた隠しにしてきた。

それは、家族しか知らない事実である。

Macbook Airに代表されるMacは、左手をうまく使える人達に取って、これほど優秀なキーボードは無い様であったが、それはピアノを弾くプレイヤーの様に何度も訓練をしないと成せない品物だった様に思う。

話をAppleの「学ぶ」に戻そう。

私の買ったiPhone 3GSは、それまで私が使用していた携帯電話では無理だった添付ファイルの送受信に対応していたし、音声の録音もできた。

人と人を繋ぐマシンとして、私はiPhone 3GSを大切に使う様にしたのだった。

ここで大切なことは、「人と人を繋ぐ」物や出来事は、人に大切にされるという事である。

これからAppleが、いくつもの製品をリデザインしたり、手を加えて再販したりするだろうが、それにも「学ぶ」という「人と人を繋ぐ」機能は、必ず抱擁される事だろう。

私達、日本人は、多国籍企業の最大手のAppleから学ぶことは、「学ぶ」を求める人にいかに「人と人の繋がり」を提供して行くかであり、日本列島で利用されている数十の方言を大切にする事であろう。

プログラミングやエンジニアは、母国語以外に外国語を嗜むことを、またはそれらに興味を持つ方々の様に思っている私は、一つ提案をしたい。

「数十の方言に興味を持ち、日本列島を統括した神からの贈り物を作って頂きたい」

言葉と言葉の間に生まれる「奇跡」と思える細い糸は、辿って行くと意外な言葉に繋がっている事でしょう。

それは、プログラミングする時に使用するアルゴリズムやオブジェクト指向に使える関数にも匹敵するか・・・。

インバウンドと呼ばれる方々は、この日本という他国から見ると小さな列島に興味を示して居られる様である。

その方々に「おもてなし」というお土産を持って帰って貰う事は、小さな国やその国の歯車を回す人々の生活にきっと香味を加味する結果になると強く思った。

Linuxは、今やインフラの要になっている。1997年に私はカナダのバンクーバーで生活していた。

この時に第一次Linux世代と呼ばれる人達の排出を目にした。

私は、Debian GNU/LinuxのCDセットを購入して、インドのチャンピオンのハードドライブにインストールしたりして、Linuxへの興味を自分で消化しようと試みた。

Linuxの成功の歴史の一片は、Ubuntu Linuxにみる人間に嫌われた生き物の「採用」である。

Ubuntu Linuxの壁紙やコンセプトネームは、その形や性格、名前などが嫌いという人の多い生き物を自社の製品に加えたことによって、同社の製品を見た人達に力を与えたに違いないだろう。

「なぜ、この生き物なのだ」

Linuxには、「嫌われた生き物」や「海の生き物」の形や名前を使用することによって、その活躍の場を更に広げる事になるだろう。

これは、私の些細な願いでもあった。

我が軍Windowsは、次なる障害としてArtistを見つめているかもしれない。

デザイナーが、制作したロゴなり、壁紙はArtistに取って、話題にはならないだろう。

Artistは、自己表現能力を高めることに精通した神だと私は思っているわけだが、その人達からすると「この製品は、デザイナーが関与した」だとか「これはArtistが、力を貸した」と思われる事の多いWindowsには、これからArtistに好かれるWindowsにならないといけないと思った。

「Artistに好かれるかどうかの瀬戸際」。

今回は、私のAppleへの思いとLinux歴、そして帝国Windowsについて執筆した。

拝読していただきありがとうございました。(令和6年7月2日)