私は、1966年新米教師として横浜市港北区の小さな小学校(全校11学級)に着任しました。
主任は、1つ先輩の横浜国大教育学部美術科卒業の新沼先生でした。その先生のお誘いがあって、造形教育をもりあげる会の存在をはじめて知ったのです。
私は、大学は異なるものの初等教育科で学び、卒論は木版画の研究とその制作でしたので、
いつかは図画工作科の研究も進めてみたいとは思っていました。
しかし、大学時代に木版画を師事した河西万文教授は、「佐々木には、教育の教の字も教えなかったなあ。制作は当分止めて学校教育に専念しろよ。」ということで、大学を送り出してくださったのでした。上野の公募展を除いて、3年ほどその言いつけを守りました。
私は、学生時代から大田高耕士主宰の日本教育版画協会発行「はんが」を購読していました。また、教師になり、教え子たちの版画をコンクールに応募していました。(版画は、複数できるので、子どもや保護者にはしんぱいかけませんでした)
1968年、版画コンクールの審査員の依頼があり、八王子に出向きました。
その審査会に、後の造形教育をもりあげる会会長になられた荻原勉先生と出会ったのです。
昼食時、自己紹介をし合い雑談となりました。
「造形教育をもりあげる会」のお誘いを受けましたが、体育や特別活動など小学校の教育そのものをまだまだ未熟だった私は、以前にも誘いがあった記憶だけ残し、参加は見合わせていました。
私は、1971年、希望がかない横浜市神奈川区に異動することになりました。
移動先の学校は全校38学級で、しかも隔年ペースで全国発表するような研究校でした。
何故か私は、図画工作科部員となり、数年後には、図画工作科の重点研究が始まりました。
市や区内の研究会にも顔を出すようになったのです。なんと、そこに同じ神奈川区内の荻原勉先生がいらっしゃったのです。会が終わると飲み会に誘われました。当時は、下戸でしたので、ほどほどの付き合いでした。しかし、参加してみると話芸多芸、教育談議に花が咲き、雑談の中に光るものをたくさん発見したものでした。
異動した翌年(1972年)、私は、第17回造形教育をもりあげる会(会場;冠峰楼、200余名参加)にて、分科会の責任者となっていたのです。
会長は、造形教育をもりあげる会を創設した小関利雄先生、事務局長は横浜国大附属中学校美術科教官の相場秀夫先生でした。
大会後の月例会には、相場先生の勤務校で行われ、私も毎月参加するようになりました。
(佐々木孝)
