昭和33(1958)年の婦人雑誌で、故中村歌右衛門※のエッセイを見つけました。
※六代目中村歌右衛門(ろくだいめ なかむら うたえもん、大正6年(1917年)1月20日 - 平成13年(2001年)3月31日)は戦後を代表する歌舞伎役者。生涯を通じて歌舞伎、それも女形に専念し、戦後の歌舞伎界に最高峰として君臨した名優。名実ともに当代随一の役者であった。歌舞伎・舞踊以外の演劇活動は行わず、映画やテレビドラマに出演することもなかった。 wikipediaより
原稿用紙10枚ぐらいの分量で、「妻の死に舞う浅妻船」というタイトル。「浅妻船 」は舞踊の題名です。
舞台のため、妻つる子の死に目に間に合わなかった歌右衛門のエッセイなんですが、冒頭はこんなふう。
つる子。つる子はとうとうあたしを、ひとりぼっちにしてしまった。
わぁお、イキナリですか。大向こうから声がかかりそうな新派※風冒頭でありまする。
※新派=旧劇すなわち歌舞伎に対し当代の世話物を演ずる演劇 。川上音二郎らの壮士芝居から始まり明治中期より盛んとなった。演技・演出ともに歌舞伎の影響が強く、歌舞伎と新劇との中間的な性格をもつ。女形を使い、当たり狂言 には花柳界を背景にした人情劇が多い。 「はてな」より
厳しい芸の世界では、舞台にいるときは親やこども、女房の死にめにも会えないことは、当然のこととされている。でも、つる子が駄目なものなら、なんとかしてひと眼会いたいと念じるあたしは、昼の部の「桂川連理柵」のお絹が終ると、耳についた白粉もそのまま、昼と夜の休憩時間に、宇田川町の自宅に飛んで帰った。
あたしが、時ならぬ時に帰ったので、あのときのつる子のうれしそうな顔。お互いの魂と魂とがほんとうにふれ合うときのよろこび・・・・そういうよろこびの前には、涙や悲しみはまったく姿を消してしまうことを、あたしは今度はじめて知った。
全編新派してるぅぅ。歌舞伎役者が新派してるというのもおかしいのかもしれないけれど、役者の舞台と妻の死の間際といえば、印象深いのが、新派の名女形花柳章太郎の映画初出演作「残菊物語」。その記憶がどこかにあったせいかもしれません。
歌右衛門の一人称は「あたし」であったことは、昔見たテレビのインタビュー番組で知っていました。そのとき、この人は舞台の外でも女形らしいんだ、とつくづく感心したのでした。(いま、こういう感じに近い女形は坂東玉三郎だけのような気がする。といっても玉三郎の一人称はたしか「ぼく」だったような・・・・・・)
ああ、話がそれました。引用箇所だけではあまりわからないんですが、女形にして夫、そしてぜぇんぶ隅から隅まで歌右衛門、というような内容、文体でした。
歌舞伎ファンがリアルタイムでこれを読んだら、もうもう涙にむせんだことでありましょう。
さて、夕食後、
めったにこんなことはしないんですが、「今日の感動」とか言ってコピーを見せたら、Mは数行読んでヒトコト。
「誰か書いてるよぉ。普段、文章を書かない人はここまで書けないよぉ」。
えぇっ! もう、人の感動を・・・・・・と思ったけれど、だんだんそんな気がしてきた。
誰かが書いたのかなぁ、と思うと、ひらめくのはあの人、川口松太郎。
うん、このエッセイは個人的にも親交があった(と推測できる←ヤマカンだ)川口松太郎という可能性はおおいにあるな、と、独断に満ちたことを思いました。
それぐらい、文章全体が歌右衛門していました。見事でした。