不倫する 1-1
通風孔へ、ごぉっと音をたててダイニングの空気が吸い込まれていく。あなたは換気扇の下で煙草を吸っていた。除夜の鐘の音が、空気の流れに逆らって家の中に入ってくる。家族はもうみんな眠っていた。
遠くから聞こえる鐘の音にしばらく耳を傾けていると、唐突に思った。
(惚れたのか、あの人に?)
まさか、と笑えないことに気づいて、あなたは狼狽した。それから、何度も否定しようとしたが、焦れば焦るほどアノヒトニホレタことが事実になってしまうようだった。コマッタとかソンナハズジャナイとかいう声があなたの中でいくつも聞こえ始めると、それはどんどん事実になった。うろたえながら、もう後戻りできないような強さで、アノヒトニホレタと、あなたは思う。
(だって、会ってないんだよ。一度も、あったことがないんだよ)
冗談じゃない、一度も会ったことがない人に。
(わたしには、夫がいる、子どもがいる)
そう、あなたには夫と子どもがいる。
(ずいぶん昔、こういう気持ちになったときは、男に惚れていた)
少し落ち着いて、と言い聞かせ、換気扇の下を離れて、ダイニングテーブルの前に腰を下ろした。あなたの心臓がドクドク音を立てている。
(いったいなんなんだ)
口元で手を組むのは考えるときの癖のようだが、やがてあなたは頭を抱えた。胃の中からせりあがってくるものがある。喉の下でこらえたそれを押し出したほうが楽になる。グッグッと喉の奥で音がしたとき、あなたはトイレに駆け出し、便器を抱えて顔を突っ込むように乗り出して胃の奥を絞った。グェッと音だけがしたので、もう一度、吐こうとしたが、なにも出てこなかった。なにをやってるんだ、元旦の朝だというのに。
ダイニングテーブルの前に戻ると、また、頭を抱えた。グッと喉から音が出た。グッグッグッと三度突っかえて、ごろんとでてきたように思ったのは声のない言葉だった。
(私は、もう夫を愛していない)
バカか、と、あなたは頭を抱えて泣いた。泣きながら、芝居じみていると思った。
しばらく泣いていると、そういうことだったんだ、と気がついた。身に覚えがあった。あのとき、もう夫を愛せないなと思ったのだ。どこにもここにもありそうな夫婦のすれ違いじゃないか、あんなことやそんなことがありながら夫婦は暮らしていくものなんだと世間が言うとおりを守って、あなたはそれを五年ほどじっと胃の腑の下のほうに収めていた。気の毒に、といえばいいのか、お笑いだね、といえばいいのか。夫をもう愛していないことに気づくために、夫ではない男に惚れたと言い始めるのは、やっぱりお笑いじゃないだろうか。
ふぅっと、ラマーズ法のように息を吐いた。
数日前、初めて送ったあのメールに返事は来ていない。
パソコンを立ち上げて、その人に2通目のメールを書けば、まだ間に合うような気が、あなたはした。標準語は使わずに、あのネットの中でのように過剰な大阪弁で奇妙なメールを書き始める。
<・・・・・・この間見た映画で、老人が若い男に「恋を覚ます方法なら、いくらでもあるよ」と言っていた。若い男は「とんでもない」と答えたから、ワテはその答えを聞きそびれたが、聞かなくても、おかげさまでダイジョブだった。ほんま、ひっさしぶりにビックラこいただよ。>
ためらったあと、<ほな、さいなら>と書いた。一度消して、また同じ文字をタイピングした。
あなたは、ぼろぼろ泣いていた。