双六で東海道

あららん、この画像はボケボケですね。

小豆色に見えてゐますが、薄いめの錆利休に、和田誠さんのイラストです。


題名の連想もあるのかもしれないけれど、このエッセイは、お正月に読む本にちやうどよいのではないかしらん。

下戸の哀しい妄想ではありますが・・・・・・。

好きなお酒をちびちびやりながら、博覧強記が手にあまるところは飛ばし読みなどしつつ、呵々大笑、くつくつ小笑できる一冊ではないかしらん。

ほんたうに、しまつた。

酒の修行をちやんとしておけばよかつた。せめて、お正月に読みたかつた。


丸谷才一さんのエッセイが、かういふ具合に、ここまでおもしろかつたかしらんと、わが貧弱な読書の過去を振り返つてみれば、『男もの女もの』以来、数年ぶりです。ええ、小説は『輝く日の宮』を読んでいます けれど。

ここ数年で、わたしが賢くなつたとはとても思へないので、やつぱりこの方のエッセイは数年前よりくだけておもしろくなつたのではないでせうか。



最初は「遅刻論」。

なあんだ、丸谷センセイは、遅刻常習犯だつたのか(いえ、わたしは遅刻常習犯なんかぢやありません。過去五年間で一度そんなことがありましたが)。

『走れメロス』、『宮本武蔵』、『奥のほそ道』に、日米開戦のときの通告の件・・・・・・。題材は、ほら、例によつて山盛りではあるのだけれど、卓見たつけんまた卓見。卓見の詳細はお楽しみのために省きます。

この方の卓見は今に始まつたことではないけれど、『男もの女もの』に比べると、駘蕩とした雰囲気とサーヴィス精神がぐうんと加速していて、あちこちで笑つてしまひました。要約では面白さが伝えられないので、これも概ね省略。

「宴会の研究」の中から、一箇所だけ引用します。


 あ、『饗宴』といふ本はありますよ。プラトンその他何人もが書いた。なかでもプラトンのものは大古典である。しかしあれは宴会で話をしあつたその中身が書いてあるので、宴会の仕方、つまり会費をどうするかとか、酒はどのくらゐ準備するとか、酔つ払ひが暴れだしたらどうするかとか、さういふことを教へる本ではない。

 不思議だなあ。みんな宴会は大好きなのに、どうしてその運営を論じないのか。

 近頃の日本は新書が大はやりで、大家も中堅も新進も競つて新書を書くし、堅い出版社も柔い出版社もみな新書を、月に何冊も出す。それなのに『バカの宴会』とか『世界の中心で乾杯!』とか『宴会が上手な人、下手な人の飲み方』とか、さういふ本が出ないのはなぜなのか、わたしは理解に苦しむのであります。



あららん、拙文がフォントサイズ3で、著者の引用文がフォントサイズ2、いいのかしら。まあ、許していただかう。ここは拙のブログでありますから。



ところで、この面白さの一翼を担つてゐるのは、旧かなづかひではあるまいか。

旧かなづかひでかういふくだけた文章を書くと、新かなづかひ(とさへ、いまは言はないのではないか)では出なかつたはずのユーモアが出る。旧かなづかひといへば、むづかしいことを書いてあるに決まつてゐるという先入観もあるからかしらん。

インテリな現役かつご隠居(実に矛盾してゐます)のちよいとブラックなユーモアが字面からも漂つてきて、いつさうおかしみが増してゐるように思ひます。


本日の愚考はこれにてm(_ _)m




追伸  ほかにも、読みたい本が出てきてしまつた。

 綾とりで天の川
むずむず次を読みたくなつて、アマゾンに直行したら、「文藝春秋」掲載のシリーズの前作、「抱腹絶倒」と書いてあつた。ああ、さうだつたのですね。

 丸谷 才一, 三浦 雅士, 鹿島 茂 文学全集を立ちあげる

面白いという噂をきいたままになつてゐました。



 丸谷 才一, 岡野 弘彦, 大岡 信 すばる歌仙

いつだつたか『酔いどれ歌仙』『とくとく歌仙』を図書館で借りてしまつた拙、今度こそは・・・・・・


えいつ。ワンクリックで買つてしまひました(^o^;)