(7)
「少しだけど、女の子への手切れ金も主人に渡したわ」
ええ、有り難くいただきました。上手ですよね、奥さんは。
遊びでつきあったわけじゃなければ、手切れ金を渡すような男に愛想が尽きる。
遊びなら、後腐れなく別れてあげようという気にもなるでしょうから。
そうそう、今、あなたが飲んでいるジノリのカップは、そのお金で揃えました。
「それから、ご主人はもう、全然?」
「だと思う。あれから三年くらい経っているけれど、怪しいそぶりは何もないし。これからは君と和彦のためだけに生きるって言った言葉を信じようと思ってるの。私も、お金のことばかり言って守銭奴みたいだっただろうなって思ったし、つんけんした口調でものを言って可愛げのない女だったって、反省したのよ」
それは何よりです。このお店をオープンしたとき、元同僚から聞きつけて、鉢植えの胡蝶蘭を送っていらっしゃったわ。ほら、奥さんの後ろにあるでしょ。私の誕生日にもまだ花束を贈っていらっしゃるけれど、私は約束どおり一度もお会いしていないし、これからも会いません。
「秋野さん、あのとき、どんな妻だって夫が死んでくれたらいいって思うわって言ったけど、そういうことがあったからなのね」
アキノさんの妻は、首を少し右に傾けた。その様子は、守銭奴だった人には見えない。むしろ、中年なのにチャーミングな人だと思う。
「夫の浮気がわかったときは、”死んでくれたらいい”なんていう生やさしい気持ちじゃなくて、”死ね!”みたいな感じよ」
アキノさんの奥さんは、そう言って声をあげて笑った。正直な人だと思った。
私は、アキノさんと肉体関係ができたとき、奥さんが死んでくれたらどんなにいいだろうと思った。
アキノさんが手切れ金を持ってきたとき、私はアキノさんと奥さんに、おまえたちみたいな人でなしは、死ね!と思ったわ。殺意まであと一歩、いえ、まだ二、三歩はあったかしら。
「”死んでくれたらいいな”っていうのと、”死ねばいい”っていうのと”死ね!”って思うのは、違うでしょ。溝口さんがときどき”死んでくれたらいいな”って思うのは、互いに浮気だとかなんだとかをしていない証拠みたいに思うわ。一生自由に暮らせるだけのお金があって、子育ても無事終わったら、ふっとそういうこと思うの、当たり前なんじゃないかな」
「そうかしら。仲のいい夫婦でも、そう思うのかな」
「なに、言ってるの。溝口さんところなんか、立派に仲のいい夫婦よ」
「しょうがない。まぁ、そういうことにしておきましょ」
二人は、声を立てて笑った。それから、溝口さんが、ふと思い出したように言った。
「由美さんは、前川さんが死んでくれたらいいって思ったこと、なかったんでしょうね」
「そうね。互いに相手が死んでくれたらって思わない条件の人を、由美さん、探し出したのかもね。財産がなくて、両親とも距離があって、一途に愛してくれる人を」
笑いにごまかそうとして、アキノさんの奥さんはうまくいかず、ちょっと上を向いた。
ミゾグチさんは、冷めた紅茶をひと口飲んだ。
死者を送る世俗の儀式が終わったらしい。
アキノさんが、腕時計を見た。
「もう五時すぎよ」
「帰らなくちゃ。今日は、主人が早く帰ってくるって言ってたから」
「ほら、ごらんなさい。仲がいいのよ、あなたたち」
「そんなんじゃないのよ。ほんとに、頭に来るんだから」
「また、その話は今度ね」
「由美さんの四十九日、行く?」
「どうしよう。また、連絡しあいましょうよ」
レジを済ませた二人を、店の入り口まで送った。
「また、どうぞお立ち寄りください」
「今日は、長居してすみませんでした」
ミゾグチさんが言った。
「ケーキ、とてもおいしかったわ。こちらにはよく来るから、また寄ります」
アキノさんが言った。こう言って、また店に来る客の確率は、三割程度というところだ。
「お待ちしております」
私は、オーナーの笑顔で頭を下げた。
冬の黄昏の中に消えていくアキノさんの奥さんの後ろ姿を見ながら、私はいつかまた彼女がここにやってくるのを、待っているような気がした。 (完)