卯月四日、王子権現にお佳代さんはやってきた。ちょうどぴったり一月後だった。権現様の若葉の匂いに混じって、ほのかに酸い藍の匂いが弥助の鼻腔をくすぐったとき、弥助はなつかしい気分を味わった。この一ヵ月、お佳代さんは無事で過ごしたらしい。この前のように手早く商売道具をたたんで、隣の独楽売りに「半刻ほど」と、屋台を預かってもらった。


 二人は並んで、権現様に手を合わせた。
「お佳代さん、御籤を引いてみなせぇ。いい卦が出るかもしんねぇ」
 お佳代は、笑って首を振った。
「もう、江戸じゅうの御籤を引いたような気がするんです。だから、今日はもういいんです」
「そんなことはねぇやな。日が違えば、卦も違う。お佳代さんが御籤を引き飽きたんなら、あっしがお佳代さんの分を引きましょう」
 弥助は一文銭を箱に入れて、御籤の前で手を合わせ、三方の中からひとつ引いた。
「お佳代さん、開けますか」
 お佳代は首を振った。弥助が御籤を開けると、「中吉」と出た。
「まちびと ひがしよりきたる ねがいこと おそくともかなう うせもの ときならずして いがいなかたより いず」
 弥助は声を出して読んだ。お佳代がうつむいた。
「ほら、見なせえ」
「その御籤は、弥助さんが引いたから、弥助さんの娘さんの分。弥助さんのお糸さんには、幸せになってもらいたいんです。わたしのお糸の分まで」
 お佳代さんは、自分の娘がもう生きていないと本当はあきらめているのだろうか。
「お糸ちゃんのことで、あれから、なにかよくない知らせがあったんですか」
「いいえ、そんなことは…」
 お佳代はそれだけ言って黙ってしまった。

 お佳代の眼差しをたどれば、葉桜の緑に覆われた飛鳥山があった。弥助もその色を眺めた。なにも言わず、二人でただ突っ立っているだけなのに、お佳代の悲しみを知っているはずなのに、満ち足りた気分になることが弥助には不思議だった。


しばらくして、お佳代は巾着袋の中から、なにかを取り出した。
「もし来月、わたしが弥助さんに会いに来なかったら、いつかこれを根岸の井筒に届けていただけませんか。料理屋の井筒です。女将のお積さんが、わたしの幼馴染なんです。妙なことを申しますが、どうぞよろしくお願いいたします」
 そう言って、お佳代が手の平に載せて差し出したものは、縮緬の小袱紗に包まれて丸い形をしていた。


 来月の今日、弥助がどこで商いをしているかを聞く前に、お佳代がこんなことを言ったのは、たぶんもう来月は会いにこないということなのだな、と弥助は思った。肩すかしを食ったような、これでよいのだというような中途半端な気持ちで、弥助はお佳代の差し出した小さな袱紗包みを受け取った。受け取るとき、弥助の指がお佳代の手に触れた。そのままぐいと手を引いて、お佳代を長屋に連れて帰りたい、と弥助は思った。長屋には嬶もお糸もいない。二人とも六年前の大火事で焼け死んだ。お糸が生きていれば、十四になる。だから、どうだってんだ。お糸の供養のためにも、お佳代さんに頼まれたことをやってやりゃいいんだ。


「井筒の女将のお積さん、かい」
「はい。伊勢屋のお佳代からのあずかりものだと言ってください」
 あんたは、もう伊勢屋の人じゃなかったはずだが。弥助は意地悪くそう言いたいところを飲み込んだ。怒る筋合いはない。伊勢屋のご新造であろうと、伊勢屋から縁を切られた女であろうと、俺の知ったことじゃあない。しかし、これだって、あんたが届けりゃいいじゃないか。幼馴染みには落ちぶれた今の自分を見せたくないってことか。まったく、俺ぁ、底抜けのお人よしだ。



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