「かなわぬ思い」 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)
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「私は奥様があなたをどれほど愛していたか、よくわかりますわ」
瀬山良介に、そう答えました。瀬山良介の妻のハンカチを見ていると、彼女こそが瀬山良介に愛されるにふさわしい人だという気持ちがいっぱいにふくらみました。
一人の男を愛し、その男に愛された日があったと信じられないまま一生を終えた私には、彼の妻が真っ白いハンカチで私は夫に愛された、夫は私を愛したと言っているように見えました。
「女房よりも君のほうが、僕を愛してくれたと思うことがあったよ」
あれほど献身的に僕に尽くしてくれた女房より君のほうが僕を愛してくれたと、思ってしまうのはなぜなんだろう。しかし生きている間も、僕はときおりそんな感慨を抱いたのは事実だ。それは僕が女房より板倉瑶子を愛していたということなんだろうか。
「そして僕は誰よりも女房を愛していたが、とおっしゃるのでしょう」
「君は、どうしてそう素直じゃないんだ」
君ハ、ドウシテソウ素直ジャナインダ。
瀬山良介が怒りを含んだ声で言いました。私が素直であったことなど、あなたの知るかぎりにおいてさえ一度もなかったはずです。小娘のときでさえ、私はあなたに対して素直ではありませんでした。臆病とプライドの相乗効果は、あのあとあなたに対する意地に変わり、私の存在そのものになりました。そんなことを、あなたはご存知ないでしょうけれど。
「あなたは奥様のように素直な方が好きですものね」
僕と女房を侮辱するそんな言い方は、やめろ。
君がそんな口をきく女だと、この期におよんで僕は知りたくない。
「君のような女は、地獄に落ちればいい」
僕の口から、そんな言葉がぽろりと転がり落ちた。
「ええ、あなたのように天国に行けるとは思っていませんわ」
他人の人生の羅針盤の針をほんの少し狂わせたという些細な事まで取りたてていれば、天国になど行ける人は一人もいなくなってしまいます。終生妻を愛したあなたなら、きっと天国に行けることでしょう。