「きれいだね」
と言った僕を、これ以上ないような憎しみのこもった眼差しで板倉瑶子は見た。君は僕が差し出した手を、あのときのように振り払うのか。あの世で、君はきっと鬼にでもなるのだろう。それは君の選択だから、僕の関知するところじゃないが。
僕が君にしたことは、君にとっては許しがたいことだったろう。しかし二四歳の僕には、あれが精いっぱいだった。
あの日の数日前、僕が画塾から帰ると女房はアパートの前で僕を待っていた。いつか、君の家が見える場所に僕も佇んだことがあったが、女房は砂糖づけの甘ったるい映画のように、雨の夜、傘もささず僕のアパートの前で濡れていた。映画ならそらぞらしくても、それが自分の身に起きれば、人は誰でも有頂天になるものだ。僕は女房を抱えるようにして部屋に入れた。女房は僕の胸に飛び込んで泣いた。僕は女房の一途さを決して嫌ってはいなかった。それから何が起こったか、言う間でもない。
男にとってセックスが肉体の快楽にすぎないというのは嘘だと、そのあと僕は思った。愛してくれるという保証のない僕の胸に飛び込んできた女房を、いとしいと思った。それに女房はかなりの美人だった。そんな女が僕を愛してくれているというのに、押しても引いても反応のない女を思い続けるのはどうかしていると思った。しかしその一方で、僕は君の物言う目も知っていた。僕のアプローチで君の目が少しずつものを言うようになったと、僕はひそかに自負していたのだ。だから、僕は君に対しても責任がある。僕は二人の女の間で、それから何日も揺れ続けた。
より責任を取るべき相手はどちらかという視点を最優先すべきだという声に、僕は従おうと決心した。結論を出したつもりでほっとしていると、ふいにもう一つの声が聞こえるのだった。このまま結婚してしまえば、後悔するぞ。僕はそのたびに、また一から考え直さなければならなかった。
確実に愛されていると僕が実感できる女と、僕たちの魂が呼応している瞬間があると思える女。いつでもセックスができる女と、僕とのセックスは考えられないと言うかもしれない女。尽くす女と誰にも尽くさないだろう女。責任などと言う言葉を持ち出さなくとも、どちらの女を伴侶にすべきか、答えは出ていた。しかし、もう一つの声は決して止まなかった。
僕は最後の賭けをすることにした。知ってのとおり、あのころの僕は君同様プライドだけで生きていたようなものだったから、君に「好きだ」と告げることができなかった。「婚約した」と告げて、もし君が泣いたら、そのときは君を取ろうと思った。
しかし、君は泣かなかった。僕のゆさぶりにも、顔色ひとつ変えなかった。君のプライドには敬服するよ。そのときまで、君は幼くて臆病なだけだと思っていたが、それは僕の妄想だったのだ。僕は、そう思ったよ。君への思いを断ち切るためには、そう思うことが必要だった。
そのあとで、あなたをどんなに愛しているかと綿々としたためた手紙をよこそうが、僕は聞く耳なんぞ持つはずがなかった。君が一番ショックを受けるだろうと思える方法で、僕は君の手紙を返した。遅すぎたのさ。