「西鶴一代女」
1952年 監督=溝口健二 脚本=依田義賢 出演=田中絹代 三船敏郎 宇野重吉 進藤栄太郎 沢村貞子等 148分 白黒 製作=児井プロ=新東宝



数年来、見たかった映画。以前はレンタルがなかった。
おもな溝口作品の中で、これだけがセルのみだった。
今は、少なくとも「TSUTAYA 新宿店」にはある。
貸し出し中であることが多い。

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かつては「男性映画の黒澤、女性映画の溝口」と称された溝口健二。
故・長谷川一夫に「こんな仕事やっとったら、ほかの監督さん、可哀想や」といわしめたほどの贅沢な映画づくりをした監督だ。
私が惚れた作品は「近松物語」「雨月物語」。

名作の誉れ高い「西鶴一代女」は、これらの作品に勝るとも劣らないはず・・・、そんな期待をもっていた。
しかし、前半とラストは期待値を大幅に下回る。期待が大きすぎたこともあるが、期待値を差し引いても「近松物語」や「雨月物語」には及ばない、と、私は思う。

前半とラストは、プログラムピクチャーを見ている感じ。そういう傾向は他の作品にもあるが、それにしても。
ストーリーも脇役の人物設定も不自然で、興をそがれる。役者たちが大真面目に演じているから、よけい興をそがれる。シリアスなのに、喜劇のよう。これは困る。
原作(大急ぎで原作の「好色一代女」をざっと読んだ。笑)にあるエピソードを少々アレンジしてつなぐという、映画化にあたっては当たり前のことをしているにすぎないのだが、このアレンジの仕方が全部見事にハズレ。
そして、脇役の人物、とくに父親はまったくイケナイ。強欲で、娘の心などには全くお構いなし。そういう父親がヘンだというのではなく、この作品でこの父親の人物造型は変だ、ということ。宮家の末裔で卑しくない家柄(原作も同じ)という設定が、商人のようなセリフやしぐさをするこの父親のせいで、リアリティに超欠けてしまう。商人風の吝嗇ではなく、貧乏公卿のねちっこさ、せこさ、を持たせるべきところではないか。ちなみに、原作では主人公の出自を知らせる冒頭にのみ登場するだけ。こんなに、ちょこまか出てきて、失笑させない。


しかし、後半、ぐんとよくなる。
主人公が急速に落ちぶれはじめてから、ぐんとよくなる。

(京)御所務め→青侍との密通(独身者同士でも、仕事がら?不義密通になるようだ)→(江戸)大名家の側室→(京)島原の太夫→大呉服商の使用人
使用人を辞めさせられたあたりから、すばらしくよくなる。
主人公は母親に連れられて、家に戻る途中。羅生門(? 黒澤の羅生門よりはるかに小さい)近くで、茣蓙をひき三味線の弾き語りをする女がいる。
音色やや低く、おっとりと、廓のけだるさと哀愁を含んだ三味線の音、女の声。当代(1950年頃)随一の、京の地方(じかた)の演奏だろう。その点、溝口作品は申し分ない。
主人公<はる>は、その女に聞く。
「ずいぶんよい腕だが、あなたはもとはどういう人だったのか」と。
女は答える。
「私は、島原でナニという太夫でした」。(会話文、ママではありません)
<はる>は、その女の前に金を置き、柱にもたれて、耳を傾ける。

このシーンは、とっても、よい。哀愁のある、とても絵になるシーン。


<はる>は、どんどん落ちぶれる。
呉服商の使用人→尼寺で尼僧に仕える→金を盗んだ呉服商の使用人と逃げる→先のシーンの女のように茣蓙を敷いて弾き語り→夜の女たちに拾われて、自分も夜鷹に→性の相手ではなく、哀れな姿を見せて若い男たちの教訓とするために、男に買われる→五百羅漢の前で、半生を振り返る(冒頭のシーンと同じ。これをなぜ、ラストにしなかったのか? このあと、また陳腐になる)。

後になればなるほど、すさまじくなる。
落ちぶれ方も、主人公の心持ちも。
この描き方が、恐いほどうまい。
そこが、溝口の真骨頂。

もとは純な女が、<次第>に性格が変わる。
多くの映画の、「すさみ方」とは違う。
どう違うのか、どこが違うのか。
たぶん・・・<次第>のテンポと、田中絹代の演技。
そして、溝口の女性観。
ごく身近でそういう女たちを見たり聞いたり、抱いたりした男。かなりたくさん?
そういう女たちの哀しみの理解者でありながら、一方で、そういう女たちの無残を冷徹に観察する眼を閉じない男。
・・・と、書いてみても、他の監督の女性観とどう違うか、という明晰な切り口で、溝口の女性観を語ることはできない。


溝口は、小津のようなインテリではない。
この映画の大半に漂う、プログラムピクチャー的陳腐を見たとき、改めて思った。
女性、わけても売春婦を描かせれば、溝口。
ああ、そうだ、実にそのとおりだ、と、初めて思った。

たったひとつの感動でも、それがとても大きければ名作になる。
・・・とするなら、私にとって忘れられない「西鶴一代女」は名作である。

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【うんたらくたら】

<すさむ>をキーワードに、溝口作品の紹介

「近松物語」は、最後まで、少しもすさまなかった。全編超純愛のラブストーリーです。セカチュウや冬ソナなど、目じゃない。なんといっても、究極の純愛、心中ものですから。香川京子の清楚な内儀「おさん」がいい。姿がいい、声がいい、風情がいい。
「雨月物語」の、すさみ方は全く違う。通常、この主人公を「すさむ」とは言わない。ある方向で、すさみが進むと、女の心と身体は、美しい、妖しい化け物になる、のかもしれない。それを戦国時代に材を取って、すごいカメラとすごい執念で描いた作品。京マチ子の妖しさは、比類なくスゴイゾ! 
「祇園の姉妹」は題名から想像するような華やかさはない。どころか、そのむきだしの哀れさとすさみ方に、私は少し引いた。最初からすさんでいたので、「西鶴・・・」のように感動しなかったのか、と、今、思う。
「お遊さま」は最初から最後まで、すさみ、とは無縁だ。原作は谷崎潤一郎の「葦刈」(谷崎は、大和物語の「葦刈」から)。原作をお読みくだされ。「春琴抄」とは違います。こういう原作を映画化しようなんて正気の沙汰ではないと、私には思われます。溝口は、平安貴族の血筋を引いた、この美意識の「精神」のほうを全く映像で表現できませんでした(そんなもの、誰ができるか!と思うのです、私は)。ストーリーは無視して、この美意識にもとづく「衣装と女性」のほうだけをご覧になってください。さらに、「お遊さま」と「西鶴・・・」の田中絹代を比べてみるのも一興かと。


溝口監督とその作品について、詳しい紹介があるウエブ
http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/ 


P.S.
そうそう、原作と映画の一番の違いは、主人公の性格じゃないでしょうか。
原作では、最初から好きものだったと書いてます。
映画のほうは、純真からしだいに性格が変わる。
元禄文化のあの勢いの中で、原作の女は、すさむ のではなく、当然の成長のように変わっていき、老いては若い男たちが人生相談に来るのを香を炊いて迎える、というような尼になっています。
尼の雰囲気が映画と違って、原作ではもっとポジティブ・シンキングです(笑)。まるで寂○尼のように??? ハレホレハ


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