藍の香 (1)  (2)  (3)  (4)


          

             (5)


 しばらくすると、さっきの女中が酒と肴を持ってきた。
「明後日がお佳代ちゃんの忌み明けだから、一足早い法要。弥助さん、飲んでやってくださいな」
 弥助は黙って盃をとり、お積が弥助に酒をついだ。お積の盃に弥助が酒をついだ。お積はそれを一気に飲み干し、ふぅっとため息をついてから、また話し始めた。


「そんなわけで離縁話がもつれるうちに、お佳代ちゃんの気鬱の病はどんどん悪くなっていったのさ。あたしが見舞いに行くと、言うんだよ。『あたしは、鼈甲の簪も友禅の小袖もきらい。こんな藍木綿を着て暮らしたい』って」
 お積の掌の上にあるお手玉を見ながら、弥助は言った。
「あっしと会ったときも、お佳代さんはいつも…、いつもったって、たった二回ですが、藍木綿の着物でした」
「違うんだよ、そんなはず絶対にないんだよ」
 お積の言葉は、何かを振り払うように甲高い。


 お積はいっとき押し黙り、それからまた話しはじめた。
「お佳代ちゃんは、ここ二年足らず、伊勢屋を一歩も出ちゃいません。離縁が駄目になってしばらくして気が触れちまったから。お糸ちゃんがかどわかされた時刻になると、お佳代ちゃんは暴れるんです。『お糸ぉぉっ』て、叫びながら。だから、座敷牢に入れられたままだった。いつもは大人しくしてました。お糸ちゃんに遊んでやってたように、歌を歌いながらお手玉をしてました。縮緬(ちりめん)の赤いのやら黄色いのやらいろんなお手玉がある中で、このお手玉だけは木綿。藍木綿を着て暮らしたいって言い始めたころ、『これだけはお糸がいなくなってから、あたしが自分のために作ったの』って、言ってた」


 弥助は触っていいかとお積に目で尋ねてから、藍木綿のお手玉を手に取った。
「あたしが最後にお佳代ちゃんを見舞ったのはお雛さまをしまってまもなくのころだったけど、お佳代ちゃんはもう一歩も歩けなかった。それに、鍵のかかった部屋にいたんですよ。だから、お佳代ちゃんが弥助さんにお礼を言いに行けるわけがないんです」
「じゃあ、あのお佳代さんは、俺が見た幻だと言いなさるんですか。俺は、二度もはっきりとお佳代さんをこの目で見た。お佳代さんと話しました。ここに、このお手玉もある。あのお佳代さんが幻だったとしたら、俺もこのお手玉も幻だ。お積さん、あんただって幻だ」


 お積はそんな弥助をじっと見ていた。それから手酌で酒を注ぎ、ゆっくりと口に含ませた。お積の顔に、少し笑みがさした。
「お佳代ちゃんがまだ気鬱の病だったころ、何度もあたしに言ってた。お糸がかどわかされたとき、いつまでもその後を追ってくれた飴売りの人がいる。その人がお糸ちゃんを見失って戻ってきたとき、『ご新造さん、お力になれず、あいすみません』と言ってくれた。その人は、弥助さんって言うんだって、繰り返し言ってた」


 弥助は泣いた。お佳代が哀れなのか、いとしいのか、自分が哀れなのか、うれしいのか、そんなごちゃまぜの感情がどっと押し寄せて、弥助はお手玉を握ってうつむいた。お積はひとしずく涙をこぼしたあと、弥助の気持ちが納まるまで、前栽を見ながら盃を口にしていた。
「そのお手玉は、弥助さんが持っていてあげてくださいな」


 お積は弥助をいたわるように言ってから、この部屋に入ってきたときと同じような顔つきになって続けた。
「お佳代ちゃんがこのお手玉を作ったころを考え合わせるとね、ひょっとしたら、お手玉の中に書き物か何か入ってるかもしれない。お佳代ちゃんは、あたしにお手玉を渡したかったんじゃない。お佳代ちゃんは弥助さんに本当のことを聞いてもらいたかったのさ。お礼は、このお手玉。あとは弥助さんのよいように」



 弥助が井筒を出ると、雨があがっていた。
 根津権現の赤い鳥居が遠くに見えたとき、お積の言葉が蘇った。お積の謎かけのような言葉の意味は、弥助にも想像がつく。
 俺ぁ、番所にも駆け込まないし、伊勢屋に関わりも持たない。
 そんなことをするためには、このお手玉を解かなきゃならない。そんなこたぁ、したくない。役人の汚れた手でこのお手玉にさわらせるなんざ、ごめんだ。このまんまの姿で、俺の懐に入れておきたい。
 お佳代さんが藍木綿に封じたものを封じたまま、俺ぁ、墓まで持っていく。それでいいかい、お佳代さん。 
 弥助が懐に手を入れて袱紗包みに触れると、藍のほのかに酸い香が漂った。      (完)



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